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十字架の道シリーズ(14) - 十字架の処刑(1)
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2007. 4. 30 |
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<目次>
1. イエス様の着物に含まれた神様の摂理 2. イエス様が手足を釘づけられた理由と十字架につけられたふたりの強盗についての記録の差 3. イエス様のすねが折られなかった摂理とイエス様が血と水を注ぎ出された霊的な意味
イエス様の着物に含まれた神様の摂理
「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは、『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」(ヨハネ19:23-24)
イエス様は、罪人になったすべての人類を救うためにこの地上に来られ、多くの苦しみにあって十字架につけられて死なれ、復活して昇天されました。これによって誰でも、救い主になられたイエス様を信じれば、神の子どもとされる特権を得るようになるのです。イエス様が受けられた苦しみとその摂理を具体的に知れば、神様の愛をさらに深く悟って、熱い信仰生活ができます。 それでは、イエス様が裸にされる恥を忍ばれた理由は何であり、イエス様の着物に含まれた神様の摂理ははたして何でしょうか?
1. 罪人たちの恥を贖うために、裸になる恥を忍ばれたイエス様
イエス様はこれからつけられる十字架をご自身で負われて、処刑場所のゴルゴタの丘まで上られました。ついに丘の上に到着すると、兵士たちによって着物と下着をすべて奪われて、十字架につけられました。尊い神様のひとり子イエス様が、卑しい被造物である人々の前で裸になるという恥を忍ばなければならなかったのです。 それならば、イエス様がこのように恥を忍ばれた理由は何でしょうか? それは、私たちが受けなければならない恥を代わりに受けられるためです。罪人たちが当然受けなければならないあざけりとさげすみを、罪のないイエス様が代わりに受けられたのです。 汚物よりもっと醜くて恥ずかしいものが、罪です。ところが、多くの人々が罪の中で生きているので、徐々に罪に対して無感覚になるのです。ところが、光に照らされると汚いものがはっきり見えるように、光であられる神様のみことばに私たちの心を照らしてみれば、自分の中にある恥ずかしい罪がはっきりと見えるようになります。世の汚れにまみれて、罪と悪の中で生きていた人々は、将来、神様の審判台の前に立つとき、自分の汚い心と行いが一つ一つ明らかにされるので、あえて頭を上げることができません。 しかし、イエス様が私たちの罪を贖って、私たちが受けなければならない恥と凌辱を代わりに受けられたので、これを信じる私たちは罪人が受けるはずの恥を免れるようになったのです。したがって、心から主の愛に感謝して、すみやかに完全に聖められて、一点の恥もなく主を迎えなければなりません。
2. 着物を分けて、下着をくじ引きにした摂理
イエス様の着物と下着を脱がせた兵士たちは着物を四つに分けて、四人が分け合いました。そして、下着は上から全部一つに織ったものなので、くじ引きにして一人が持ちました(ヨハネ19:23-24)。これは<詩編22:18>に、「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」という預言が成就したということです。 このようにイエス様の着物について聖書が詳しく記しているのは、イエス様の着物がイスラエルの歴史を予め示しているからです。まず神の御子であられ、イスラエルの王であられるイエス様の「着物」とは、霊的にイスラエルという国家、また、その民を意味します。 ところで、イエス様の着物を四つに分けたので、着物の形がなくなって、布切れだけが残るようになりました。これは、イスラエルという国が滅びて、その形がなくなること、また、着物の布切れだけが残ったように、イスラエル部族という名前だけが残ることを意味します。 ローマの兵士たちがイエス様の着物を分けたことは、イスラエルがローマ軍によって滅ぼされることを意味しています。四つに分けられたことは、イスラエルの民が四方、すなわち、東西南北、世界各地に散り散りになることを表しています。<ルカ19:43-44>を見れば、エルサレムについてのイエス様の預言があります。 「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」 この預言のとおり、エルサレムは西暦70年、タイトス将軍が率いるローマ軍によって完全に破壊されてしまったのです。「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない」と言われたとおり、ローマの兵士たちは聖殿を作っていた石までもすべて散らしてしまいました。また、エルサレム陥落の過程で百万人以上のユダヤ人が殺害されたし、生き残った人々も東西南北に散り散りになり、異邦人たちから多くの迫害を受けなければなりませんでした。 ユダヤ人たちが体験した最も惨めな事件は、第二次世界大戦当時のナチ政権による虐殺です。600万人以上の人々が、ただユダヤ人だという理由だけで殺され、しかも裸のまま殺されました。このように数多くの人々が殺されたことは、ユダヤ人たちが自分たちの王として来られたイエス様を殺したので、その子孫に臨んだ呪いの一つだったのです。 ユダヤ人たちがイエス様の処刑を要求したとき、ユダヤ総督ピラトはイエス様が無罪だとわかったので、死刑宣告を言い渡そうとしませんでした。それでもユダヤ人たちが死刑を要求し続けるので、ピラトは「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言いました。これに対してユダヤ人たちは「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言って(マタイ27:25)、最後までイエス様の処刑を主張して、結局、彼らが告白したとおり報いを受けたのです。このように、ユダヤ人たちは自分たちの告白のとおり、苛酷な苦難の歴史を持つようになりました。それが、イエス様の着物を四つに分け合った事件に予め示されていたのです。
次に、イエス様の下着は縫い目なしのもの、つまり、布を縫い合わせて作ったものでなく、上から全部一つに織ったものだった、とあります。ここで「下着」とは、人の心を意味します。イスラエルの王であるイエス様の下着は、イスラエルの子孫たちの心を意味して、神様に対する彼らの信仰を表しています。 神様の民イスラエルの先祖はヤコブです。神様はヤコブの名前をイスラエルに変えて、彼の十二人の息子たちから、イスラエルの十二部族を形成するようにされました。イスラエルの民は長い間、他の民族と結婚しないで、単一民族を守り、唯一の神様だけを崇めてきました。 ところが、ソロモン王の子レハブアムの時、イスラエルに内紛が起きて、南ユダと北イスラエルに分裂してしまいました。それ以来、北イスラエルは異邦人と結婚して、単一民族としての純粋性を失いました。南ユダだけがまことのイスラエルの子孫として、異邦人と混ざらない単一民族として残りました。 それで今では、イスラエルの子孫をユダの人、すなわち「ユダヤ人」と呼んでいるのです。イエス様の下着が上から全部一つに織ってあったように、ユダヤ人たちは先祖のヤコブからずっと、純粋な単一民族としてつながってきました。それで、ローマの兵士たちはイエス様の下着を破らなかったのであり、これは霊的に、ユダヤ人の神様への心は決して人が分けたりなくしたりすることはできないという意味です。 結局、ローマはイスラエル民族の信仰までなくせなかったのです。エルサレム陥落以後、散り散りになったユダヤ人たちはそれほど長い歳月、苦しみにあいながらも、自分たちのアイデンティティーを失わなかったのです。ついに1948年5月14日、先祖の地へ帰り、独立国家を打ち建てました。これは、<エゼキエル書38:8-12>の預言がそのまま成就されたということです。 ここでは、終わりの年に、世界の国々から民がイスラエルの地へ戻り、その国が立ち直ることが預言されています。世界のどの民族が、ひどい迫害にあって苦しめられながら、その民族性と固有の信仰を守り、滅ぼされてから2000年余り経って国を回復することができたでしょうか? イスラエルの先祖であるヤコブから譲り受けた国民の心と信仰が、それほど堅固だったということです。上から全部一つに織ったイエス様の下着がそのまま保たれたことが、まさにこのような歴史をあらかじめ教えてくれるのです。
愛する聖徒の皆さん、 このようにエルサレムの陥落やユダヤ人たちの苦難、イスラエルの滅亡と再建などのすべてが聖書に記されたとおりに成し遂げられました。まだ成就されていないことは、今後起こることです。そのうちの一つが、もう遠くないうちに、十字架で亡くなられて復活されたイエス・キリストが私たちを連れに来られることです。したがって、目を覚まして祈り、すみやかに花嫁の備えを終えて、再び来られる主を迎えられますよう、主の御名で祈ります。
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