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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

十字架の道シリーズ[18] - イエス様の十字架上の七言(2)

万民ニュース   第 55 号
19628
2007. 09. 02


<目次>
1. 第一、二言
2. 第三言
3. 第四、五、六言
4. 第七言

「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

ほとんどの人々は臨終が近づけば、過ぎ去った人生を振り返って家族と隣人に遺言を残し、家族はその遺言を大切に思います。同じように、救い主として来られたイエス様が十字架につけられ、亡くなられながら遺言のように最後に残されたお言葉があります。それが十字架上の七言です。
神の御子として人間の救いの摂理を完成されたイエス様の十字架上の七言を通して、主の心を明らかに悟ってこそ、まことの神様の子どもになれます。
前回に続き、十字架上の七言のうち、第三言について調べてみます。

1.「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」

<ヨハネの福音書19:26>を見ると、「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。」と書かれています。ここで「息子」とは、そばに立っていた愛する弟子ヨハネを示していて、イエス様はおとめマリヤに、ヨハネを息子のように思いなさい、と言われています。
それでは、イエス様がおとめマリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた理由は何でしょうか? ここで注目しなければならないのは、イエス様がおとめマリヤを「女の方」と呼ばれたことです。
聖書にはイエス様がおとめマリヤを「お母さん」と呼ばれた記録が全くありません。「母」という表現は、ヨハネの福音書を書きしるした弟子ヨハネの立場から書いたのであって、 イエス様の立場から言われたものではありません。
イエス様が水でぶどう酒をお作りになった事件が<ヨハネの福音書2章>に出てきますが、ここでもイエス様はおとめマリヤを「女の方」と呼ばれました。これは、おとめマリヤが決してイエス様のお母さんにならないからです。イエス様は神の御姿であられ(ピリピ2:6)、三位一体の神様のうち御子の神であられるのに、どうしてイエス様のお母さんがありえるでしょうか。
神様は永遠の先から永遠の後まで、「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられる方で(出エジプト3:14)、誰かが神様を生んだのもなく、神様を作り出したのでもありません。したがって、神の御姿であられるイエス様が、被造物であるおとめマリヤを「お母さん」と呼ぶことはできません。
しかも、おとめマリヤは遺伝的にもイエス様のお母さんになれないのです。一般に人は両親の精子と卵子が結合して胎に宿りますが、神の御子であるイエス様は聖霊によって宿られた方です。
万一、ある女性の体を借りて人工受精で生まれた赤ちゃんがいるならば、その女性のことを「お母さん」と呼べるでしょうか? また、赤ちゃんがしばらく保育器の中で育ったからといって、保育器を「お母さん」と呼べるでしょうか? このように、イエス様がおとめマリヤの体を借りたからといって、イエス様の「母」と称することはできないのです。
それなのにおとめマリヤをイエス様の母として崇めて、偶像のように拝んだとしたら、三位の神様が決して喜ばれることでありません。<出エジプト記20:3-4>に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・どんな形をも造ってはならない。」とあるとおり、神様のほかにはどんな被造物の形をも造ってはならず、仕えて拝むことがあってはなりません。
次に、イエス様が「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われたことは、おとめマリヤを慰めるためです。愛するイエス様が苦しみを受けておられるのを見るとき、マリヤはちょうど刃物で心が刺されるように苦しんでいる状況ですから、心細やかなイエス様がこのようなマリヤを覚えて、最後の瞬間までも慰められ、弟子ヨハネを実の息子のように頼るようにされたのです。

2.「そこに、あなたの母がいます。」

<ヨハネの福音書19:27>を見れば、「それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」と書かれています。
イエス様はおとめマリヤを慰めて、ヨハネに「そこに、あなたの母がいます。」と言われました。その時からヨハネはおとめマリヤを自分の家に引き取って、実の母のように仕えて生きたのです。
マリヤは処女でイエス様を産んだ後、夫であるヨセフとの間に何人かの子どもを産みました。しかし、イエス様はマリヤの子どもたちに頼まれたのではなく、弟子ヨハネに頼まれました。ここで私たちが明らかに悟らなければならないことは何でしょうか?
<ピリピ人への手紙3:20>に「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあるとおり、救われた神様の子どもたちは天に属する人なのです。主を受け入れて、天国のいのちの書に名前が記された神様の子どもたちは、神様を父として仕える霊的な家族です。
それでは、神様が霊的な父であられる理由は何でしょうか?
神様が命の根源になられるからです。私たちが肉の両親によってこの地上に生まれましたが、両親の精子と卵子も神様が下さったのであり、先祖をさかのぼれば、人類の祖先であるアダムの命も神様から来ました。神様がご自身でアダムの体をお作りになって、その中にいのちの息を吹き込まれたので、根本的に私たちの命は神様から来たものです。
また、人が結婚して子どもを生むといっても、神様が許されるのでなければ命を宿すことができないし、宿った子どもに霊と魂を下さるのも神様がつかさどられるからです。今日、科学が発達しながら、クローン人間に関する論議が多くありますが、いくら遺伝工学が発達しても、人の霊と魂を作り出すことはできません。仮に人の肉はコピーできるとしても、霊と魂がないから動物と変わらず、本当の人と言えないのです。
しかも宿った子どもの性別や性分、容貌なども、両親が願うままにできません。このようにただ神様おひとりだけが人の命をつかさどることがおできになるのです。
本教会ではみごもれなかった夫婦が神様の力でみごもった事例がとても多くあります。結婚して3年、5年、7年、はなはだしきは10年以上になっても子どもができないので、あらゆる方法をすべて使ってみごもろうとしました。このように人の方法では心の願いがかなえられなかったとしても、神様の御力を信じたらみごもりの祝福が受けられるのです。
したがって、人に霊と魂を下さる方も神様、生死禍福をつかさどられる方も神様であられ、このような神様が私たちの霊的な父になられます。万一、神様を信じないで世の欲にしたがって生きていけば、神様を「お父様」と呼ぶことはできないのです。
<ヨハネの福音書8:44>に「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」とあるとおり、悪魔の子どもだからです。
ですから、この地上で互いに血縁関係で結ばれた家族といっても、主を信じない家族は天国で永遠に共にいられるのではありません。イエス様も「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われて、真の家族、霊的な家族について教えてくださいました(マタイ12:50)。
肉の家族を愛して仕えても、神様の前にふさわしい霊的な愛でなければならない、ということです。仮に神様を妨害して、神様のみこころと反対になるように行なう家族に合わせるなら、これはまことの愛ではないからです。
たとえば、肉の両親や兄弟が「教会に行くな」と言ったり「一緒に罪を犯そう」と言ったりすれば、これは愛ではなく、死に導くことです。ですから、肉の両親と兄弟も愛さなければなりませんが、必ず真理にあって愛して仕えるべきです。
また、肉の家族を愛するなら、何よりも共に救いを受けて、天国に行けるように導かなければなりません。それで永遠の天国で一緒に生きられる、まことの霊的な家族にならなければならないのです。

愛する聖徒の皆さん、
十字架上の七言の三番目のお言葉には、十字架につけられたイエス様を見て悲しんでいるマリヤの心を慰めてあげようというイエス様の愛が含まれています。
また 主にあっての兄弟姉妹がまことの家族だという事実を教えてくださいます。このような主の心を悟って、さらに神様を愛して、主にあって霊的な愛を分かち合われますよう、主の御名で祈ります。


 

 

 
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