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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(2)

万民ニュース   第 66 号
7338
2008. 09. 28


「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル人への手紙11:1-3)

1. 神様が下さってこそ持てる霊の信仰

私たちが救われて天国に行くことも、神様に祈って答えられるのも、信仰でなされることです。ところで、この信仰は必ず神様が認められる霊の信仰でなければなりません。人のほうでいくら「信じます」と告白しても、神様が認められる霊の信仰でなければ、救われることも、答えられることもできないのです。
「霊の信仰」とは、自分の知識や理論や思いに合わなくても信じる信仰であり、現実と条件に関係なく、変わらない信仰であり、知識として知っているだけに終わらず、行ないによって証拠を見せる信仰だと言いました。このような信仰があれば、人としてはとうてい不可能なことでも、信仰で祈って答えられるのです。
ところが、この霊の信仰は、人が自ら持てるものではありません。<ローマ人へ手紙12:3>に「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるとおり、霊の信仰はおのおのに神様が分け与えてくださった分、持てるのです。
もし、人が思いのままに霊の信仰が持てるなら、この世には多くの問題が起こるでしょう。たとえば、隣人をとても嫌っている人が、「あの嫌いな人が交通事故にあうようにしてください」と祈ったとしましょう。こんな人も自ら答えられる信仰が持てるとしたら、世の中はめちゃくちゃになるでしょう。したがって、正しい方である神様は、答えられるにふさわしい資格を備えた人にだけ、答えられる信仰を与えられます。

<マルコの福音書9:22>で、おしの霊につかれた息子の父親が、イエス様のところに息子を連れて来て、いやしてくださるように求めます。父親は「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言いました。ここで「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」というのは、信仰の告白ではありません。まぐれあたりを期待する心です。
それで、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と悟らせてくださいました。するとすぐに、その子の父は「信じます。不信仰な私をお助けください。」と叫んで言いました。ここで「信じます。」と言ったのは、驚くべき御力のわざを行なわれるイエス様の噂を聞いて、知識としては知っている、という肉の信仰の告白です。
その次に「不信仰な私をお助けください。」と言ったのは、知識としては聞いて知っているけれど、いざというと、自分の心には息子の問題が答えられる霊の信仰がないことを悟ったので、答えられるための霊の信仰を下さいと求めているのです。このようにへりくだった姿勢で、真実に求める姿をご覧になったイエス様が命じられると、悪霊は出て行って、その子はふつうになりました。子どもの父親は、初めは知識的な信仰を持っていましたが、切に求めて霊の信仰を持つようになり、これによって息子が完全にいやされる神様のみわざを体験したのです。

2. 霊の信仰を持つには

1) 霊の信仰が持てないように妨げる、すべてのはかりごとと思弁を打ち砕かなければなりません
そのためには、<コリント人の手紙第二10:5>のみことばのように「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従」させなければなりません。
人が生まれてから学んだ知識と思弁、思考と価値観はすべてが正しいものでなく、ただ神様のみことばだけが永遠不滅の真理です。人が自分の知識と思弁が正しいと言い張っている時は、真理である神様のみことばを受け入れることができず、霊の信仰を持つこともできません。世で学んだことが神様のみことばと合わない時は、それらを徹底的に否認して、みことばだけを完全に信頼して認めなければなりません。しかし、それができないので、霊の信仰が持てないのです。
本教会で信仰生活をしている聖徒の皆さんは、知識と思弁、枠とはかりごとを打ち砕くことがやさしくできます。毎週、数多くの不思議としるしを見聞きしています。特に不治の病と難病、あらゆる病気とわずらいが神の力でいやされる証しは、とうてい数えられないほどです。このように数え切れない神様のみわざを体験すると、いくら知識が多い人でも、自分の思弁とはかりごとを神様のみことばより先立たせることはできないのです。
<ローマ人への手紙8:7>に「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。今日、本教会に神様が見せてくださるみわざによっても、神様のみことばを信じられないようにする、すべてのはかりごとと思弁を捨てて、神様のみことばならば、ただ「アーメン」で受けられますように。

2) 神様のみことばを熱心に聞いて学んで、そのまま行なわなければなりません <ローマ人への手紙10:17>に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。まずは神様のみことばを熱心に聞いて学び、真理で心を満たしていかなければならないのです。心を真理で満たしていくと、真理に逆らうものは抜け出て、きれいな心になります。このようにきれいな心に変えられた分、神様はより大きい霊の信仰を与えてくださいます。
<ヨハネの手紙第一3:21-22>に「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」とあり、そのほかにも、聖書のあちこちでこのような約束をされています。神様は必ず約束を守られる方です。ですから、心を真理で満たしていき、みことばどおり生きていく子どもたちには、信じられる霊の信仰を与えて、その信仰で求めるとき、必ず答えてくださいます。
心の畑がとても良い人ならば、みことばを聞いて学ぶと、すぐ心に信じられるので、霊の信仰がすくすく育ちます。しかし、ほとんどの場合は、みことばを聞くと、初めは知識的な信仰で受けます。しかし、だんだんこれを霊の信仰に変えていかなければなりません。聞いて学んで、知識として入れた神様のみことばが、心の中で霊の信仰として満たされるためには、神様のみことばにそのまま聞き従う行ないが必ずなければなりません。
たとえば、ピアノを上手に弾くには、楽譜をしっかり暗記したからといってできるのではなく、直接ピアノの前に座って練習しなければなりません。同じように、いくら神様のみことばをたくさん読んで聞いても、実際にそのみことばどおり行なわなければ、何の役にも立ちません。みことばどおり行なうとき、神様のみことばは生きていて力があるので、答えられ、祝福されるという美しい実を結びます。
もちろん、みことばどおり聞き従おうとしても、直ちに従えない場合もあります。神様が「愛しなさい」と言われたので、みことばどおり愛そうとしますが、心からは憎しみが捨てられないでいたり、憤りを捨てようとしているのに、度々憤ったりもします。そのような時は、火のように祈って、聞き従える力を受けなければなりません。祈ってもだめだったら、計画して決めたとおり祈ったり、徹夜や断食をしたりして、必ず力を受けなければなりません。このように心から神様の恵みと力を求めると、神様は必ず聞き従える力を下さいます。
それで、みことばに聞き従って行なっていく時こそ、霊の信仰を持つことができます。このように行ないによって霊の信仰を持つようになると、みことばに約束されたように、祝福が臨みます。たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であり、心の願いにも答えられます。こういう祝福の体験をするなら、それからはますます大きいことにも聞き従えるようになり、より大きい信仰を持つようになります。
それで、<ローマ人への手紙1:17>に「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」とあるのです。「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とあるように、聞き従って行なう時でこそ、知識的な信仰から霊の信仰に変えられて、小さい信仰からより大きい信仰に至るようになります。
この過程を理解しやすいように、たとえを挙げてみます。水を飲めばのどの渇きが解消されることを知っていることは、知識的な信仰です。ところが、聞いて頭で知っているその知識を信じて行なってみたところ、実際にのどの渇きが解消されました。すると、これが体験になって、その後はのどが渇けば、自動的に水を探して飲むようになります。一つの知識が行ないによって心で信じられるので、次からは自動的に行なうようになるのです。
神様のみことばも同じです。聖書のみことばを聞いたとき、からし種ほどの信仰でも、ひとまず従って行なってみると、従ったとおり信仰の体験をして、その体験によって霊の信仰を得るようになります。それで、上から霊の信仰が与えられる分、次はさらに簡単にみことばどおり行なえるようになります。
霊の信仰が大きくなって完全になると、神様がいくら不可能なことを命じられても、すべて聞き従って行なうことができます。たとえば、アブラハムは百歳で得たひとり子のイサクを、全焼のいけにえとしてささげなさいという神様の命令にも、そのまま聞き従えました。アブラハムは神様の全知全能であることを確信して、イサクを全焼のいけにえとしてささげても、神様がまたよみがえらせることもできる、と信じたからです。このように不可能なことまで信仰で聞き従ったとき、彼は「信仰の父」となり、「神の友」とまで呼ばれる驚くべき祝福を受けることができました。
皆さんも、アブラハムのように神様のみことばに信仰で聞き従って、行ないで信仰の証拠を見せられますように。それで、父なる神様に喜ばれて、ますます大きい信仰を持って、毎瞬、全知全能の神様の力を体験して生きていかれますように。

愛する聖徒の皆さん、
神様のみことばを守り、行ないで心を真理で満たしていけば、その分大きい霊の信仰が与えられます。結局、各人の信仰は、心がどれほど真理で満たされたかによって決められるのです。そして、信仰が大きい人は、信仰が小さい人よりさらにすみやかに答えのみわざが現れます。同じ時間祈っても、祈りの香がさらに太くて美しい香りとして神様に届けられるからです。
ところで、私たちが大きい信仰を持たなければならない、もっと重要な理由は、将来、天国でもどれほどより美しい天国に入って、どれほどより大きい栄光の中に生きられるのか、その尺度になるのがまさに信仰だからです。したがって、さらに大きく完全な霊の信仰を持って、この地上でも求めることはすべて答えられて、将来、天国でも最も栄えある場所に入られますよう、主の御名で祝福して祈ります。


 

 

 
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