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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(3)

万民ニュース   第 67 号
7486
2008. 11. 02


「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)

1. 聖霊に助けられる新約時代

[マタイの福音書11:12]に「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあります。天国は神の国であり、敵である悪魔・サタンが近づくこともできない光の領域です。いったい誰が天国を激しく攻めて、どのようにして天国を奪い取るというのでしょうか?
これは、救われた神の子どもたちが信仰で天国に入って行く過程、全き信仰に至る過程を説明しているのです。すべての人は罪によって地獄に行くほかないのですが、イエス・キリストを信じれば誰でも救われて、天国に行けます。しかし、敵である悪魔・サタンは、何としてでも信じないように妨害します。すでに主を受け入れた人でも、惑わして罪を犯すようにしようと、虎視耽々機会をねらっています。このような悪魔・サタンと戦って勝ち、天国を奪い取らなければならないのです。
バプテスマのヨハネはイエス様の道を備える人で、イエス様が救い主の働きを完成されるようにイエス様を証しする使命をゆだねられました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで」とは、イエス・キリストの時代のことであり、信仰で救われる新約時代を意味するのです。
まず、新約時代と旧約時代の救いの基準について調べてみましょう。旧約時代は、律法の行ないによって救われました。律法を守り行なわなければならず、守れなくて罪を犯した時は、罪のためのいけにえをささげてはじめて罪が赦されました。一方、イエス・キリスト以後の新約時代は「聖霊の時代」あるいは「恵みの時代」と言います。今は、罪のためのいけにえをささげなくても、主イエスを信じれば救われるからです。主の尊い血と聖霊の力で罪が赦されて、救われるのです。
ある人々はこのみことばを誤解して、新約時代には口で「信じます」と言えば、罪を犯しても赦されて救われると考えます。これは誤った考えです。旧約で「行ないによる救い」とは、たとえ心に悪があっても、行ないで罪を犯しさえしなければ「罪がある」とみなされない、ということです。一方、新約では、行ないで罪を犯さなくても、心に悪をいだいたこと自体がすでに罪であり、兄弟を憎めばすでに殺人者と同じなのです。まして行ないで罪を犯せば、よりいっそう大きい罪になるのです。
[ガラテヤ人の手紙5:19-21]に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。
「肉の行ないをする者たち」、すなわち、行ないで罪を犯す人々は、神の国を相続できないのです。その他にも、旧約や新約、聖書の所々には、行ないで罪を犯す人は神様と関わりがない、と警告されています。救われる信仰があるならば、行ないに現れた罪はもちろん、心の悪までも捨てるべきだということが、まさに今日、私たちに向けられた神様のみこころなのです。
それでは、旧約時代より新約時代に救われるほうが難しいでしょうか? そうではありません。旧約時代には自分の意志と努力で罪を犯さないで、律法を守らなければなりませんでしたが、新約時代には自分の力でなく、聖霊の力で罪が捨てられるからです。
[ローマ人への手紙10:10]に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるように、心に確かな信仰がある人は、必ず律法を守り行なうのです。聖なる神様が私たちの父であられることと、イエス様が自分の罪のために十字架を負われたことを信じたら、当然罪を捨てようと努力するようになります。悪を行なっていた人が善を行なって、行ないに現れる罪だけでなく、心の罪の性質そのものまで脱ぎ捨てて、正しい人に変えられていくのです。
人は自分の力で変われるのではありません。イエス・キリストの尊い血と、私たちを助けてくださる聖霊の力で変われるのです。たとえば、聖徒の皆さんは、主を受け入れた後に聖霊が働かれると「酒、タバコが簡単にやめられた」と言います。このように、信仰で主を受け入れて罪を捨てようと努力していくとき、聖霊の力が臨み、行ないで犯す罪はもちろん、心にある罪の性質まで捨てられるようになります。
旧約時代には、聖霊が受けられなかったので、心の罪までは捨てることができなくて、天国に激しく攻めて入れませんでした。アブラハムやモーセのような人々は、やがて来られる主を信じて、さらにすばらしい天国に攻めて入りましたが、そのような人々は極めて少数にすぎません。ですから、聖霊を受けて心の罪を捨てて、よりすばらしい天国に攻めて入れる新約時代の私たちのほうがもっと幸いなのです。

2. いろいろな場所に分けられている天国

天国は私たちの目に見える空の上にあるのではありません。天国は見えない霊の天に属していて、霊の天はこの肉の天と次元が違う領域です。霊の天もまた、いろいろな天に分けられます。
[ネヘミヤ記9:6]に「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」とあり、[列王記第一8:27]にも「天も、天の天も」とあるし、その他にも聖書のあちこちに天が一つでないことが記されています。
[コリント人への手紙第二12:2]には、使徒パウロの霊が「第三の天」に引き上げられたことが語られています。第三の天があるなら、当然第一、第二の天があって、それ以上の天も存在すると考えられるでしょう。パウロが言う「第三の天」とは、天国がある天であり、使徒パウロが見た場所は「第三の天」の中でもパラダイスでした(第二コリント12:4)。
それでは、パラダイスとはどんな所でしょうか? 十字架上で死の直前に主を受け入れた強盗のように、かろうじて救われる信仰を持った人が行く場所が、パラダイスです。神のみことばに従って生きられなくて、神の国に忠実であったこともないので、報いもない、天国でも最も低い天国です。
[ヨハネの黙示録21章]には、使徒ヨハネが見た天国の新しいエルサレムが記されています。十二の宝石が土台石を飾っている、聖なる栄えの都として描かれています。そこは天国でも最も栄華を極める場所で、神の御座がある所であり、神のことばを完全に守って心に耕して、大きい信仰を持った人々がとどまる所です。
新しいエルサレムとパラダイスの間には、いろいろな段階に分けられた場所、すなわち、一天層、二天層、三天層があります。皆さんがそのうちどの場所に入るのかは、皆さんの信仰によって決められます。惑わす敵である悪魔・サタンを退けて、血を流すまで罪と戦って捨て、真理の心に変えられるほど、よりすばらしい場所に入る資格を得るのです。

3. よりすばらしい天国に攻めて入るには

[マタイの福音書13:31-32]で、イエス様は「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」と言われました。
からし種は種の中でも小さいほうで、白紙の上にペンで点をつけたほどの大きさです。救われたばかりの聖徒の信仰はからし種ほどですが、その種を自分の心の畑に蒔いて熱心に育てれば、雨風にもびくともしない木のような大きい信仰に育ちます。大きい木には多くの鳥が宿って休むように、信仰が大きい人は多くの魂がいだけます。信仰が弱い人々にいのちを植えつけて、霊的な休みを与えることもできます。このような大きくて広い心になれば、天国でも、それだけさらに広くてすばらしい場所にとどまるようになります。
この地上でいくら良いこと、いくら美しくて華やかで幸せなことを想像しても、天国とは比べることさえできません。天国で最も低いパラダイスでも、この地上で最も美しい所よりはるかに美しいのです。一天層はパラダイスと、二天層は一天層と比べられないほどすばらしいし、三天層と二天層は天と地の差と言えるほどです。ですから、神の御座がある新しいエルサレムの栄光は、どうして言葉で説明できるでしょうか?
天国は足で踏む道さえ純金で作られていて、神の御座から流れ出るいのちの水の川のほとりには金砂、銀砂が敷かれています。宝石のように輝く澄んだ水には色とりどりの魚が泳いでいて、花びら一枚、草の葉一枚を見ても、その清らかさとかぐわしさはこの地上のものとは比べられません。汚染されることもなく、老いたり腐ったり死もありません。天使が皆さんに仕えて、甘美な演奏を聞かせたりもします。
三位一体の神様、そして愛する人々とともに、幸せを味わいながら永遠にとどまるようになります。特に新しいエルサレムに入った神の子どもたちは、世のどんな皇帝でも得られない栄光と栄華を味わいながら生きていきます。使徒パウロは天国のパラダイスを一度見ても、大きい望みを持つようになり、主のために数え切れない苦しみにあいながらも、喜んでその道を行くことができました。
皆さんも、天国について明らかに知れば、まことにこの地上のものがむなしいと悟るようになります。世のむなしい欲と情欲をすべて捨てて、ただみことばどおり自分を変えさせて、すばらしい天国だけを攻めて入るために走って行くようになります。

愛する聖徒の皆さん、
私たちが将来とどまるようになる天国の場所は、私たちの耕作が終わる瞬間に決められます。ですから、まだ信仰が小さい人でも、今から熱心に天国に攻めて入れば、新しいエルサレムに入ることもできます。反対に、今は一天層や二天層に入る信仰でも、今後心の割礼を怠れば、むしろ信仰が退歩してパラダイスに行くか、まかり間違えば救われないこともあります。
したがって、天国を切に慕ってすみやかにより大きい信仰に至り、最もすばらしい天国を奪い取って入られますよう、主の御名で祝福して祈ります。


 

 

 
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