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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(5)

万民ニュース   第 69 号
6997
2009. 01. 25


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は、信仰の最も低い段階である信仰の一段階と、信仰の一段階の人々が入る天国の場所、パラダイスについて伝えます。

1. 最も少ない信仰の量りであり、救われるための信仰

信仰の量りを五段階に分けると、そのうち最も少ないのが信仰の一段階です。信仰の一段階は「救われるための信仰」です。「聖霊を受けるための信仰」であり、<ヨハネの手紙第一2:12>のみことばに照らせば「子どもたちの信仰」に当たる段階です。
<使徒の働き19:2>で、使徒パウロが幾人かの弟子に「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねます。弟子たちは、神様を信じてバプテスマのヨハネのバプテスマも受けたけれど、聖霊は受けていませんでした。そこで、使徒パウロがイエス・キリストを伝えて按手すると、直ちに聖霊が臨み、異言と預言などのさまざまな御霊の賜物が現れました。
皆さんは聖霊を受けられたでしょうか? 聖霊を受けてこそ、神の子どもになれます。聖霊は、父、子、聖霊の三位一体の神様のおひとりです。私たちが福音を聞いて主イエスを受け入れれば、神様が聖霊を賜物として下さいます。
聖霊を受けるためには、まずイエス・キリストについての福音を聞かなければなりません。<ローマ人への手紙10:17>に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるとおり、イエス・キリストがどんな方であるのか、なぜ私たちの救い主であるのかを聞いて知ってこそ、信じられます。
アダムが罪を犯してから、すべての人類は原罪を持って生まれるようになりました。また、一生の間罪を犯しながら、罪の支配者である悪魔に従って生きていきます。このように、すべての人は原罪と自ら犯した罪を持った罪人なので、地獄に行かなければなりません。自分なりに正しく生きているという人々もいますが、<ローマ人への手紙3:10>に「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。」とあるとおり、真理に照らしてみれば、明らかにみな罪人なのです。
<ローマ人への手紙6:23>に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあるとおり、罪人は必ず死の刑罰を受けなければなりません。しかし、イエス様が十字架を負って死なれたので、罪の代価を代わりに払ってくださいました。しかし、イエス様は全く罪がない方なので、死んで三日目に、死の力を打ち破ってよみがえられました。そして、このことを信じる人は、十字架の尊い血によって罪が赦されて救われ、永遠のいのちを得るようになりました。
<使徒の働き2:38-39>では、ペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」と言っています。誰でも福音を聞いて、心の扉を開けて自分が罪人であることを悔い改めて、罪が赦されれば、神様が聖霊を心の中に遣わしてくださるのです。
このように主を受け入れて、聖霊を受ければ、ついに救われた神の子どもとしていのちの書に名が記されて、天国の国籍を得るようになります。ちょうど子どもが生まれれば戸籍に名前を載せるように、救われた天国の民として名前が記されるのです。<ヨハネの福音書1:12>に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるとおり、神の子どもとされる特権を得るようになります。
皆さんが聖霊を受ければ、知識として知っているのでなく、心から信じられます。それで、おとめがみごもってイエス様が人として生まれたことや、イエス様が死んでからよみがえられたことも信じられます。イエス様が自分の救い主であり、将来私たちを連れに再び来られることも信じられます。人の知識と考えでは信じられないことですが、聖霊が信じられるように助けてくださるので、心から信じられるのです。
もちろん、このような信仰はまだ全き信仰ではなく、からし種ほどの小さい信仰です。しかし、からし種を蒔いて育てれば、ますます育って大きい木になるように、徐々に信仰生活をしながら大きい信仰に育つようになります。
ところが、信仰の一段階は、聖霊を受けていのちの書に名が記されたけれど、まだ神様のためにしたことは何もありません。神のみことばを聞いて従い、罪と戦って捨てたのでもなく、何かの務めを引き受けて、神の国のために忠実に働いたのでもありません。
<ルカの福音書23章>には、イエス様が十字架につけられているとき、一緒に十字架につけられていて、死ぬ直前にイエス様を主と受け入れて、救われた強盗が出て来ます。このようにかろうじて救われた人々が入る天国の場所が、まさにパラダイスです。もしこの強盗が、救われた後にずっと生きて信仰生活をして、罪を捨てて心の割礼をしながら神の国のために忠実に働いたとすれば、一段階の信仰でなく二段階、三段階の信仰に育ち、もっとすばらしい天国に入ることもできたでしょう。
したがって、皆さんは聖霊を受けて、信仰によって救われたなら、ますます信仰が育つように、こまめに神のみことばを聞いて、学んで、従い、行ないによって心をきよくしなければなりません。また、伝道して、奉仕して、祈って、神の国のために忠実に働くなど、もっとすばらしい天国を慕って、熱心に攻めて行かなければならないのです。

2. 信仰の一段階の人が入るパラダイス

パラダイスは信仰の一段階の人が入る天国であり、天国で最も低い場所ですが、この地上と比べられないほど幸せで、美しくて、平和な所です。皆さんの想像力をすべて働かせて、最も美しくて快適で、幸せな場所を思い描いてみてください。
空は澄んで青く、白い雲が絵のように浮かんでいます。きれいな砂がまぶしく輝く浜辺に、海は澄んで、水の中がみな見えます。さまざまな色の魚が珊瑚礁の間で泳いでいます。美しい樹木と花があり、甘い香りが四方に広がって、芝が果てしなく広がっています。寒くも暑くもない快適な天気で、あちこちから幸せな笑い声が聞こえてきます。この地上でも、このように美しくて平安な所を見れば、神様を信じない人々も「まるで天国のようだ」と言ったりします。
しかし、いくら美しい所でも、パラダイスとは比較になりません。花びら一枚、草の葉一枚がこの地上のものとは全く違って、鳥の羽も、その色とやわらかさと輝きはうっとりするほどです。ですから、パラダイスに行けば、まるで夢を見ているかのように美しい景色の中で「私のような人が、どうしてこのような恵みを受けるようになったのか」と言いながら、神様の愛に感激するしかないのです。
神様の御座から出たいのちの水が、新しいエルサレムと三天層、二天層、一天層をあまねく回り、パラダイスまで流れて来ます。いのちの水の川の両岸にはいのちの木があり、十二種の実が毎月なります。芝生によく整備された道が敷かれ、美しく飾られた多くの庭園があり、鳥のさえずりが音楽のように聞こえて、花々が満開で美しい香りを放ち、木になっている果物も思いきり食べられます。悲しみ、苦しみ、病気や死もないし、害を加える動物もいないし、災いもありません。
それでは、皆さんはこのようなパラダイスで永遠に生きたいと望まれるでしょうか? もちろんパラダイスは良い所ですが、もっとすばらしい天国を攻めて行かなければなりません。いくらパラダイスが良くても、一天層で受けられる幸せとはあまりにも大きい差があり、それより上の段階の天国とはもっと大きい違いが生じます。たとえば、純金と各種の宝石で華麗に建てられた宮殿のような家や、王子と王女のように栄えある冠をかぶって華麗な服を着た姿、美しい天使たちが主人に付き添う姿などは、パラダイスにはないからです。パラダイスにとどまる人々には報いや冠がないし、家も別に与えられません。
私たちがこの地上で信仰生活しながら、信仰によって行なったこと、神様のために忠実に働き、蒔いたものが、天国で報いとして与えられます。ところが、救われる信仰である一段階の信仰では、天国に報いを積む余裕がなかったのです。
もちろん、家がないからといって、パラダイスに生きる人々は、芝生を散策しているだけではありません。この地上にも、村の自治会館や福祉館のような所があって、いろいろな人が一緒に使います。そのように、パラダイスにも共同で使う場所があって、その中に集まることもできるし、安らかに休息を取ることもできます。共同生活をしても、天国には悪がないので、互いに譲って相手を配慮するから、不便なことはなくて幸せなだけです。
しかし、パラダイスがいくら幸せな所だといっても「私はパラダイスに入っただけでも十分だ」と言う方はおられませんように。肉的に、この地上でさらに多くのものを取って楽しもうとする欲は捨てるべきですが、神様の前で報いを受けようと望む、霊的な欲はなければなりません。本当に信仰があるならば、当然もっとすばらしい所を慕い求めなければならないのです。霊的な欲を出すからといって、「もっとすばらしい天国に入らなくては」と、言うだけではなく、実際にさらにすばらしい天国に入れる資格を備えなければなりません。
天国を攻めて行くために、神のみことばを守り行なって、心の悪を捨ててきよい人に変えられる信仰の勇敢な戦いが始まれば、まさに信仰の二段階に入るのです。これについては、次に調べることにします。

愛する聖徒の皆さん、
世の中で最も大切なものが魂の救いです。漠然と「救われるだろう」と思ってはいけないし、救いの確信と天国に対する望みを持って、いつも満たされた信仰生活をしなければなりません。まだ聖霊を受けていない方がいるならば、神様が約束された恵みの聖霊を切に求めて、必ず賜物として受けられますように。また、聖霊を受けた方は、熱心に信仰生活をして、信仰が日ごとに育たなければなりません。まさに今が、皆さんの前に救いの門が開かれた時です。もっとすばらしい天国に入る機会が与えられた時です。
<イザヤ55:6>に「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあるとおり、今、与えられた機会を十分に生かして、熱心に天国を攻めて行かれますよう、主の御名で祝福して祈ります。


 

 

 
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