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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(6)

万民ニュース   第 70 号
7380
2009. 02. 22


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は、五段階の信仰のうち、信仰の二段階について調べます。

1. みことばどおり行なおうと努力する信仰の二段階

前に、信仰の一段階とは、救われるための信仰であり、聖霊を受けるための信仰だと言いました。すなわち、イエス・キリストを救い主として受け入れ、聖霊を受けたので天国のいのちの書に名が記されて、神の子どもと認められた状態です。
聖霊を受ければ、心に救いの確信と罪の赦しの恵みで心が軽くなって、喜びと幸せが満ちるだけでなく、異言のような御霊の賜物を受けたり、賛美が絶えることなく、教会に来るのがとても楽しくなります。一方、信仰が成長しないで停滞している時は、聖霊がうめかれるので、満たされなくなって悩むようになります。ですから、喜びを失わないためには、信仰の一段階にとどまらず、二段階、三段階へと成長し続けなければならないのです。
それでは、信仰の二段階とはどんな信仰でしょうか?それは「行なおうと努力する信仰」です。信仰の一段階は救いの喜びで満たされていますが、みことばどおり生きるのではないので、酒、タバコがやめられなかったり、憤って嘘をついたりなど、以前の生活をそのままします。しかし、礼拝と各種の集まりでますますみことばを学んで、自分の生き方を変えなければならないと悟ります。
「安息日を聖なる日とせよ、完全な十分の一献金をしなさい、祈りなさい、愛しなさい、仕えなさい、平和をつくりなさい、さばいて罪に定めてはならない、姦淫してはならない、相手の益を求めなさい」など、このようなみことばによって「私も変えられて、学んだみことばどおり生きなければならない」と思うようになるのです。この時、各人の心におられる聖霊がみことばを思い出させてくださって、真理の中を歩めるように助けてくださいます。
<ローマ人への手紙8:26>に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とあります。神の子どもたちがみことばどおり生きない時は、聖霊がうめかれるので、悩むようになります。しかし、みことばに聞き従って真理の中を歩む時は、聖霊が喜ばれるので、心に平安と幸せが臨んで、聖霊に満されるようになります。このように聖霊が働かれると、罪と悪を悟って、みことばどおり行なえる力を受けていくのです。
信仰の一段階にいる人は、罪を犯しても、あまり心が悩んでいると感じません。みことばがよくわからないので、真理と真理に逆らうものが何かも悟れなくて、罪を犯しながらも罪とわからないので、聖霊のうめきも聞けないのです。けれど、二段階に入れば、みことばを知りながらも相変わらず罪と悪の中を歩む時は、聖霊がうめかれるのを感じるので、心が悩んで聖霊に満たされなくなります。
たとえば、赤ちゃんは裸になっていても、恥を感じません。自分が服を脱いでいることも知らず、服を着るべきだという礼儀も知らないし、恥が何なのかさえ知りません。しかし、もう少し成長すると、恥ずかしく感じるようになるのです。
これと同じように、信仰の一段階では真理をよく知らないために、真理に逆らってはいけないという意識もないのです。これに対しては神様も責められません。しかし、信仰の二段階では、すでにみことばを知っているので、罪を犯せば聖霊がうめかれるのを聞いて、そのために心が悩むのです。

2. 信仰の二段階から信仰の三段階に成長するには

信仰の二段階は「行なおうと努力する信仰」だと言いました。<ヤコブの手紙2:26>に「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とあるように、みことばを聞いて知ったのですから、信仰があるならば、そのとおり行なおうと努力しなければなりません。
しかし、まだすべてのことに真理を追って行なえるのではないし、行なおうと熱心に努力はしますが、真理のとおり行なう時もあり、行なわない場合もあります。
たとえば、安息日を完全に守って、絶えず祈ろうと努力はしますが、忙しくなったら主日が守れなかったり、祈りを休んだりもします。試みにあえば感謝できなくて、口からつぶやきが出たり、平和をつくりたいと願うけれど、憤って争ったりします。
このような時も、気を落としたりあきらめたりせずに、信じて努力していけば、たとえ完全ではなくても、神様はその姿を見て、救われる信仰があると認められるのです。また、祈って神様の力を求めて、みことばどおり行なおうと努力するなら、10回罪を犯したところが9回、8回となり、ますます減って2回、1回になって、結局、罪を犯さない人に変えられるのです。このように変えられるほど、信仰の二段階から信仰の三段階に近づいていくのです。
信仰の二段階にいる人は、信仰生活が難しいと感じることもあります。知識的にはみことばを知って、罪と義とさばきについて学びましたが、心では相変わらず世が良くて、真理に逆らうことを行ないたいので、以前の生活を捨てることがやさしくないのです。
それで「信仰生活がつらい」と言ったり、苦しくて聖霊に満されなくなって、信仰生活をいい加減にするか、楽に信仰生活をしようと罪を指摘しない教会を探したりします。こういう姿で、どうして「私は本当に信仰がある」と言えるでしょうか?信仰の一段階から二段階に進んだので、三段階に向かって行くべきなのに、一段階の信仰へ後戻りしているのです。
敵である悪魔・サタンはこのような人からからし種ほどの信仰まで奪います。それで、肉の思いに働きかけて、疑いを植えつけて、受けた恵みを奪って、世を追い求めるように惑わします。結局、神様の恵みが落ちて、聖霊に満されなくなって信仰が冷めると、教会に行ったり来たりだけしているうちに、御霊が消えてしまい、救われることさえできなくなります。
それで、<ペテロの手紙第一5:8>に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあり、<テサロニケ人への手紙第一5:19>には「御霊を消してはなりません。」とあるのです。本当に信仰があるなら、罪を捨てることがどんなに難しく感じられても、その過程を勝ち進まなければなりません。この道だけが祝福の道、天国へ行く道なので、敵である悪魔と戦って勝ち、みことばどおり行なわなければならないのです。
まことに神様を愛して、天国を望むなら、決して真理の中を歩むことが難しくありません。たとえば、ものすごい宝物を隠しておいて、「1か月歩いて宝物が隠されている所まで行けば、それがすべて持てる」と言ったら、皆さんはいくら険しい道でも、不平を言わないで喜んで歩いて行くでしょう。また、世の人も、愛する人が願うことならば、いくら難しいことでも喜んでしてあげようとします。
まして私たちに下さった戒めは、愛の神様がよりすばらい天国を下さって、霊肉ともに祝福しようとして命じられたことですから、これに聞き従うことがどうして難しいでしょうか?本当に神様を愛して天国を望むなら、みことばに聞き従うことが難しくないし、聞いて学んだとおり守り行なうので、すみやかに三段階の信仰に至れます。
私もやはり、神様との出会いが熱かったので、その後にみことばどおり行なうことが全く難しくありませんでした。あまりにも神様と主イエス様がすばらしかったので、みこころを知るために熱心に聖書を読んで、こまめに礼拝とリバイバル聖会を訪ね歩きながら、みことばを聞きました。ほとんどのみことばはすぐ聞き従えたし、心にある罪の性質そのものを捨てるためには、もう少し時間がかかりましたが、神様を愛するので、それらを捨てるにも長い歳月かかりませんでした。ですから、信仰の一、二段階はもちろん、三段階もすみやかに経て、四段階に入れました。
皆さんも、このように神様が嫌われるならその場で捨てて、神様が喜ばれることならその時に心に決めて、変わらず行なっていけば、すみやかに信仰の二段階を経て三段階に入れるのです。

3. 聖徒を訪問する時は相手の信仰に合わせるべき

主のしもべや働き人は信仰の一、二段階の聖徒にいつも気を配って、訪問しなければなりません。ところが、<ローマ人への手紙12:3>に「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるとおり、訪問をする時は、相手の信仰に合わせてしなければなりません。
たとえば、大礼拝だけささげて店を開ける初心の者に「完全に主日を守らなければ救われません」と言えば、「信仰生活はあまりにも難しい」とつまずいて、大礼拝さえささげられないかもしれません。
<コリント人への手紙第一3:2>に「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」とあります。乳を与えなければならない赤ちゃんに、肉とご飯を食べさせればどうなるでしょうか?自分のほうでいくら良いと思うものを食べさせたとしても、赤ちゃんにとっては命さえ危険になるのです。
かと言って、初心の者が完全に主日を守らなくても、そのまま放っておきなさい、ということではありません。神様のみこころが何なのかについては、正しく教えなければなりません。完全に主日を守ることを神様がどれほど喜ばれるか、そうする時、どのように霊肉ともに祝福されるのか、実際の証しとともに賢く信仰を植えつけて、自らの信仰によって行なえる力を与えなければならないのです。
病気についても同じです。初心の者が病気にかかったのに、「祈りを受ければどんな病気でもなおります」と言って、病院に行くことを妨げてはいけません。この教会にはみことばと数え切れない証しがあります。これらによって信仰を植えつけますが、自分の信仰によって神様の前に出て来るようにしなければなりません。本人自ら信仰を見せることができないなら、無理に押しつけてはいけないのです。
そのほかにも、聖徒を訪問したり勧めたりするとき、または、何か神様の働きをしようとするとき、いつも相手の信仰を考慮するべきです。それで、神様の愛を感じて、天国を望んで、信仰の三段階に向かって満されて走って行けるように助けなければなりません。
信仰の二段階の人々が入る天国の場所はどんな所なのかは、次に語ります。


 

 

 
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