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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(7)

万民ニュース   第 71 号
7327
2009. 03. 22


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は信仰の二段階と、信仰の二段階の人々が入る天国の場所と冠について調べます。

1. 天国への道を信仰と希望をもって力強く走って行くべき

受験生の子どもがいる親は、子どもがかわいそうに思える時もありますが、良い結果が出るように何としてでも励まして、もっと勉強ができる環境を作ってやろうと努力します。
神様の心も同じです。聖徒がこの地上でいろいろな人生の試練、患難にあって、それに勝ち抜く耕作の過程を経てこそ永遠の天国の栄光が受けられるので、この地上でよく耕されるように励ましてくださいます。
[コリント人への手紙第一15:19]に「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」とあります。世の人が休んで遊ぶ日曜日に、皆さんは教会に来て礼拝をささげます。また、休まず祈祷会に参加します。世の放蕩を楽しまないで、社会でも正しい道を歩んで、誰かが右の頬を打っても、左の頬を向けます。
しかし、皆さんがこのように狭い道を歩んでも、哀れで愚かなことではありません。世の人の目にはつらそうに見えますが、この道の果てには、栄光に輝く天国の門が開かれているからです。しかも、信仰と希望が大きくなるほど、すなわち、信仰の段階が上がるほど、天国への道は狭い道でなく、ますます広くなります。もっとはっきり天国の門が見えて、それに向かってまっすぐ走って行けるので、信仰生活が楽になるのです。

2. みことばどおり行なおうと努力する信仰の二段階

まるで生まれたばかりの赤ちゃんの名前を戸籍に載せるように、人が主を信じて救われれば、天国のいのちの書に名前が記されます。このように神の子どもとされれば、創造主の神様と天国、地獄が信じられて、イエス・キリストが救い主であることも信じられます。しかし、まだ真理をよく知らないために、世の人と区別された生き方をするのではありません。そうするうちにますますみことばを聞きながら、真理のとおり生きるべきと悟り、学んだとおり行おうと努力し始めます。この時からが信仰の二段階です。
信仰の二段階では、たとえみことばどおり行なおうと努力はしても、完全に行なえるのではありません。時にはみことばどおり行ないますが、時には以前の生活どおり行ない、罪を犯したりもします。同じ信仰の二段階でも、人によって行なえる程度が違います。行なえないことが多い人もいるし、行なえる力がついて三段階に近づいている人もいます。二段階でも10%、50%、あるいは80%、90%など、どの程度になったかを自分で見分けられるのです。
いくら重要な使命と務めを受けても、相変わらずみことばどおり行なえなくて、真理に逆らう行ないをするなら、その人は信仰の二段階であって、幼子の信仰にすぎません。各人の心をご覧になる神様は、務めや信仰歴などを見て「信仰が大きい」と言われません。みことばにどれほど聞き従って行なうのか、どれほど真理の中を歩むのかをご覧になります。
[コリント人への手紙第一3:1-3]には「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」とあります。
まだ互いにねたんで争っているということは、肉の行ないさえ捨てられなかったということです。そのような心と行ないが出てきたら、自分が肉に属していて、ただの人のように歩んでいる信仰の二段階にいるということなのです。もちろん、信仰生活を始めてからあまり経たない人ならば、二段階の信仰でも、努力するほど神様が恵みと力を下さって、それなりに聖霊に満されます。
しかし、信仰生活が長くなって、務めもありながら、信仰の二段階にとどまっているなら、こういう場合は神様の前に罪の壁を積み上げるようになります。長い歳月、みことばを数えきれないほど聞きながらも、みことばを無視しているようなものですから、神様の前にどんなに心苦しいことでしょうか。ですから、祈って礼拝をささげても、聖霊に満されにくくて、霊的にもよく悟れないのです。何かの病気や試みにあっても、神様の前に大胆になれなくて、答えられる信仰が与えられないのです。
[ヘブル人への手紙5:12-14]に「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」とあります。
信仰歴があるので、霊的にも明らかに悟って、深い霊の世界にすみやかに入らなければならないのに、相変わらず幼子のような信仰にとどまっていると、このように責められるのです。

3. 信仰の二段階の人々がとどまる天国の場所と冠

信仰の二段階の人々がとどまる天国の場所は、一天層です。ここでは個人の家が与えられて、冠と報いがあります。[テモテへの手紙第二2:5-6]に「また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」とあります。このように信仰の競走をよく終えて勝利し、天国に入った聖徒は、天国で永遠の冠を受けます。一天層の冠は朽ちない冠です。
[コリント人への手紙第一9:25]に「また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」とあるとおり、みことばを行なおうとしたことだけでも、朽ちない永遠のものを望んで信仰の競走に参加したのですから、神様は朽ちない冠を下さるのです。
一天層には、この地上の多世帯住宅やマンションのような家があります。天国の家はレンガとセメントでなく、純金と宝石のような天国の材料で建てられています。上の階と下の階の間には美しいエレベーターが設置されていて、望む所に自動で止まります。
家の中に入れば、生活に何の不自由もないほどすべてがよく備えられています。各自の好みに応じて楽器や本が備えてあり、ゆっくり休む空間などが美しく飾られているので、一天層でも無限の喜びと満足が味わえます。
しかし、一天層には自分の家のほかには、個人が所有できる施設がありません。たとえば、広くて美しい庭やゴルフ場、プールなどがたくさんありますが、このすべてが個人の所有でなくて、共同で使うのです。一天層には個人に仕える天使はいませんが、必要な場所にはどこにもいて、施設を管理して、神の子どもたちが使おうとする時は助けます。
ある人は「天国で無数の歳月が過ぎれば、退屈でないだろうか?」と思ったりします。しかし、この地上で楽しむことが天国にもあるだけでなく、もっと多様で楽しいことがたくさんあります。華やかな宴会はもちろん、スポーツやゲームも楽しんで、娯楽施設と映画館、いろいろな公演場もあって、不思議で新しい霊の世界を絶えず探求して学んだりします。また、天国には肉がないので、変わることがありません。ですから、退屈もしないし、一瞬一瞬がいつも新しい喜びと幸せで満ちているのです。
しかし、いくら幸せな所でも、一天層で満足してはいけないのです。パラダイスもとても美しくてうっとりするほどですが、一天層とパラダイスの差はあまりにも大きいです。一天層と二天層の差はもっと大きくて、二天層と聖められた子どもたちが行く三天層の差は「天地の差」というほど、全く次元が違います。
新しいエルサレムの幸せが三天層より大きいことは、言うまでもありません。神様は、皆さんが最もすばらしい新しいエルサレムまで攻めて入ることを切に待ちこがれておられます。ですから、パラダイスや一天層がいくらすばらしくても、そこで止まってはいけないし、二天層と三天層を過ぎて、新しいエルサレムに至る最後の瞬間まで、力強く走って行かなければならないのです。

4. 信仰の三段階に入るには

信仰の二段階では、みことばどおり行なおうと努力しますが、それに含まれた神様のみこころを心に悟って行なうのではありません。「みことばがこうだ、みことばどおり行なわなければ。」このように真理を学んだので、義務的に従おうとするのです。たとえば、「安息日を守りなさい」という時も、理由があります。安息日は神様が祝福してくださった日であり、安息日を守るとき、霊的に神様に属しているという証しになるので、敵である悪魔・サタンが試練、患難をもたらすことができないのです。
このように「安息日を守りなさい」と言われた意味を心で悟れば、そのみことばを守り行なうことが難しくありません。しかし、心で悟れない時は、休みたい心、遊びに行ったり、ほかの事をしたい誘惑が入ってきたりします。このように、一方では主日を破りたい心があって、同時に「それでも主日を守るべきなのに」という心があって、二つの心が葛藤します。すなわち、みことばどおり行なおうとする御霊の願いと、世を追い求めたいと願う欲が、自分の心の中で戦うのです。
この時、世を追い求めようとする心がはるかに強ければ、教会へ行こうとする心を負かして、主日を破ることになるのです。一方、御霊の願いのほうが強ければ、世の情欲に勝つので、結局主日が守れるようになります。このような戦いが最も激しい時は、二つの心の力が同じくらいの時です。つまり、二段階の中盤に入って、真理と真理に逆らうものの勢力が心で対等になると、こうしようか、ああしようかと、葛藤が激しくなるのです。それで、[ローマ人への手紙7:24]に「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」とあるように、ほんとうにみじめな嘆きが出たり、信仰生活が難しく感じられたりします。
しかし、つらいばかりではありません。祈りながら努力していくほど、そして、一つ一つ御霊の願いを追い、真理を行なっていくほど、真理に逆らうものを追おうとする心はますます勢力を失います。すると、反対に真理を行なおうとする心はますます大きくなるので、真理のとおりに行なうことがもっと簡単になります。そうするほど、信仰生活も幸せで満たされます。
このようになれば、みことばどおり行なう信仰の三段階に入ります。乳を飲み、おかゆを食べる段階を抜け出して、堅い食物を食べる信仰になるのです。信仰の三段階については、次に続いて語ります。


 

 

 
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