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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(9)

万民ニュース   第 73 号
6993
2009. 05. 24


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

1. 罪を捨てて、聖く完全になることが神のみこころ

神様を信じていると言いながらも、ある人は「十戒を守ろうと努力はしなければならないが、心から罪の性質が捨てられないので、完全に守ることはできない」と言います。たとえば、「姦淫してはならない。」と言われれば、行ないとしては罪を犯さないかもしれないが、心の姦淫を脱ぎ捨てることはできないと言うのです。
しかし、[テサロニケ人への手紙第一4:3]に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」とあり、[マタイの福音書5:48]には「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。私たちが罪を捨てて聖く完全になることが神のみこころであり、これは神の力によってできるので、信仰をもって実現するようにと命じられているのです。
今日、一般の信者はもちろん牧会者さえも、ほとんどが心にある罪の性質が捨てられないのが見られます。行ないとしてはみことばどおり生きようと努力して、罪を犯さないようにもしますが、心まで聖くできないのです。これではやっと信仰の二段階であり、それ以上進展がないのです。ですから、全能の神を信じているというのに、聖書にある神のみわざが体験できません。
しかし、皆さんは行ないで犯す罪だけでなく、心の罪まで捨てるべきであり、罪を捨てるほど信仰が成長することを知っています。このようにみことばによって変えられるほど、人生に生きていて力ある神のことばが働くので、驚くみわざを体験して、神様に栄光を帰すのです。

2. みことばどおり行なえる信仰の三段階

信仰の三段階は「みことばどおり行なえる信仰」と言いました。聖霊を受けて、からし種ほどの信仰が心に蒔かれれば、信仰の一段階として信仰生活が始まります。その種から芽が出て育つと、みことばどおり行なおうとする信仰が与えられ、努力していくと行なえる信仰に成長するのです。
「行なおうと努力する」信仰の二段階と、「行なえる」信仰の三段階には、途方もない違いがあります。二段階までは完全にみこことばどおり行なえないので、時には世と教会に二股をかけたようにも見えます。しかし、三段階からは日常生活でも世の光と塩になります。ゆえなく悪口を言われて叱責されても、黙って耐えます。難しい問題の前でも、何としてでも喜んで感謝しようと努めます。誰もが自分の益を先に求める世で、何としてでも相手の益を求めようとして、すべての人に仕えようと努力していきます。ですから、信仰の三段階の人は、世の人が見ても「あの人は神様を信じているから何かが違う」と言われるのです。
ところで、このように行なえるには、神のみことばを聞いて、頭でだけ知っているのでなく、そのみことばの意味が心で悟られなければなりません。みことばに聞き従えば、神様が約束されたとおり祝福して、光の中を歩むほど神様が共におられていつも守ってくださるということが、心から確かに悟られなければなりません。
このようになるまでは自分の中で戦いがあります。ですから、信仰の二段階では、世でしていたとおり酒が飲みたくて、たばこが吸いたいのです。無理にやめようとするから苦しいのです。また、憤ろうとするのに、じっと我慢していなければならないから苦しいのです。そうするうちに我慢できなくて罪を犯してしまった時は、聖霊がうめきます。すると悩むようになるのです。
試練や患難にあうと、喜んで感謝しなければならないとは知っているけれど、まだ現実のほうが大きく迫って来るので、一つ一つ信仰で通り抜けるまではつらいのです。しかし、つらくてもみことばどおり生きなければならない、それでこそ天国に行けると知っているので、行なおうと努力し続けていくのです。
このように努力を続けていくと、ある瞬間からみことばの意味が悟られて、みことばどおり行なえば祝福だということが心に信じられるようになります。つまり信仰の三段階に入ったのです。
信仰の三段階では、みことばどおり行なうことが自然にからだになじんできます。もちろん、三段階でもまだ肉的なことを脱いでいく戦いがあって、しかも血を流すまで戦って捨てなければならないので、悩むこともあります。しかし、こういう戦いがあるとしても、肉の行ないと戦わなければならない信仰の二段階とは次元が違うのです。
信仰の三段階でも60パーセント以上みことばどおり行なうようになり、信仰の岩の上に立てば、心からも罪の性質がずいぶん捨てられたので、行なうことが特に難しくありません。悪を現すまいともだえながら我慢するのではなく、心から罪の性質そのものを捨てていくので、悪が現われなくなるのです。このように心に悟って行なえる信仰の三段階に入って、しかも岩の信仰になると、信仰生活が難しいのでなく、むしろ一日一日が幸せです。
たとえば、ボクシングで互いの実力が同じくらいなら、戦いがとても激しいし、時には勝つこともあり、負けることもあります。これがまさに二段階の信仰です。つまり、敵である悪魔・サタンと激しく戦って勝つ時もあって、負ける時もあるのです。ところが、ひとりが桁外れに強ければ、当然勝てるし、実力が上であるほど打たれることも少なくなるので、あまり疲れません。これがまさに信仰の三段階です。
いくら自分をつらくさせる人がいても、愛することはできないものの嫌いません。急いでお金が必要なとき、道で大金の入った財布を拾った時も、「自分が使おうか、持ち主を探そうか」と葛藤するのではなく、当然持ち主を探そうとする心に従います。このように信仰の三段階に入って、肉的なことを一つ一つ捨てていくほど、信仰の三段階の中盤を過ぎて四段階に近づきます。すると信仰生活がますますやさしく感じられます。また、罪を捨てるほど神様と明らかに交わりながら、神様の愛がさらに濃く感じられて、心から喜びと幸せが湧き上がります。
[ヨハネの手紙第一2:14]に「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。ここで「若い者たち」とは、信仰の三段階に当たります。みことばがうちにとどまっているので、いつもみことばどおり行なえて、そのみことばの剣で悪い者、すなわち、敵である悪魔・サタンに打ち勝てる信仰です。
ですから、何か困難にあったとき、信仰の三段階はしばらくの間、心配や憂いがあっても、すぐに思いを変えて神様に頼ろうと努めて、感謝の祈りができます。すべてを働かせて益としてくださる神の力を求めるのです。
さらに岩の上に建てられた信仰以上の人は、神様の前で戒めを守っているので、神様が自分の祈りを聞かれるという確信があります。また、自分が光の中にとどまっているので、敵である悪魔・サタンが恐ろしくなく、十分に勝てるという自信があります。自分で解決しようとすれば苦しいけれど、神の力に頼れば苦しいことがありません。皆さんが神のことばのうちにとどまり、神のことばが皆さんのうちにとどまっていれば、少年ダビデが巨大な戦士ゴリヤテの前に大胆に進んで勝利したように、どんな状況でも神の力で勝利できるのです。

3. 務めを受けた者は信仰の三段階に入るだけでなく、魂のために使命を果たすべき

信仰歴が長くなれば、長老、宣教会長や区域長など、いろいろな務めを受けるようになります。ところが、このように羊の群れのリーダーになるには、信仰生活だけ長いからといってできるのでなく、信仰が少なくても三段階にはならなければいけません。
これまで数え切れないみことばを聞いたのに、相変わらず二段階にいるならば、そのみことばをすべて聞き流してしまったということですから、神様の前にまことに申し訳ないことです。
信仰の二段階から三段階に入る時間は、努力さえすれば決して長くかかりません。もちろん、努力しなければ相変わらず二段階にとどまっていたり、信仰の一段階に後戻りしたりもして、そうするうちにまかり間違えば、全く救いも受けられなくなります。
それで、[ヨハネの黙示録3:15-16]に「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあるのです。
もちろん、冷たいか、熱いかであってほしいと言われたからといって、本当に信仰生活を冷たくしなさいということではありません。全く冷たくて懲らしめでも受ければ、過ちを悟って悔い改めることもできるという意味です。
ですから、務めを受けた人ならば、当然、信仰の三段階には入っていなければいけないのです。言いかえれば、三段階に入った人は信仰の一、二段階の人をこまめに顧みて、彼らも三段階に入れるように助ける責任があるのです。
本当に行なえる信仰があるならば、十字架につけられて「わたしは渇く。」と言われたイエス様の呼びかけが忘れられるはずがありません。自分の信仰だけ守ればよいというのでなく、熱心に伝道して訪問しながら、イエス様の血に報いるべきです。区域長にでもなって、イエス・キリストの心で魂を顧みなければならないのです。
[ペテロの手紙第一5:2-3]には「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」とあります。すなわち、羊の群れを顧みることにおいて、神様を愛するゆえに自分から進んでそれをなし、私心のない心で魂に仕えて、みことばどおり行なう模範を見せなさいということです。
ある人は、罪と戦って自分が練られているので、使命が果たせないと言います。しかし、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあるように、自分の罪を捨てていくだけでなく、神の国のためにも熱心でなければなりません。信仰が弱い魂を顧みて、彼らのために祈って使命を果たしていくと、主の心、牧者の心ももっと深く悟れて、聖められることもさらにすみやかにできるのです。
一段階や二段階を抜け出して、三段階に入ることはそれほど長くはかからないと言いました。行ないで「しなさい」「してはならない」と言われたことは、その気にさえなれば聞き従えるからです。
ところが、三段階から四段階に入るためには、時間がもう少しかかります。神のみこころを悟って、心の罪まで捨てるためには、それほど祈りと時間が必要なのです。けれども、これも自分の努力によって早く捨てていけます。切に神の恵みと力を求めれば、それだけすみやかに信仰の四段階へ入っていくようになります。
ところが、神様を愛して、戒めも守って熱心に忠実であるのに、長い歳月が経っても霊に入れなくて停滞している場合があります。どのようにすれば信仰の停滞から抜け出して、霊に突き抜けて入れるのかについては、次に語ります。


 

 

 
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