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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(10)

万民ニュース   第 74 号
7257
2009. 06. 28


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

1. 信仰が持続的に成長するためには、罪の性質を発見して捨てるべき

信仰の三段階になれば、みことばに込められた神のみこころが悟れて信じられるので、十分にみことばどおり行なえます。それで「戒めを守るのが負担だ」「信仰生活がつらい」ではなく、「戒めを守って生きるのは幸せだ」と告白します。このようにみことばどおり行なえる三段階を越えて、信仰の四段階に入れば、霊の次元に入ります。
ところが、信仰の段階をすみやかに突き抜けて、霊の段階まで順調に入る人もいますが、そうでない人もいます。信仰の一段階から二段階、二段階から三段階まではすぐ入ったのに、三段階であまりにも長い間とどまっているのです。四段階に入るには、心の罪の性質そのものを捨てて聖められなければならないのに、捨てるのにあまりにも長くかかるのです。
例えば、「憎んではならない」「敵を愛しなさい」とあるので、自分をつらくさせる人がいても、理解していだこうとします。しかし、心にはまだ憎しみという罪の性質が残っています。いつも喜んで、感謝して、絶えず祈りますが、心から不平やつぶやきの根が完全に引き抜かれたのではありません。このような時、自分の中に罪の性質があることを知りながらも、怠けや優柔不断ゆえに、決断して捨てられない場合もあります。
さらにもどかしいのは、自分の心に罪の性質が残っていることを自分では悟れない場合です。罪を捨てるためには、まず自分にどんな罪と悪があるかを発見しなければなりません。発見できなければ前に進めません。信仰の青年期のような三段階に入ったら、すみやかにおとなの信仰である四段階に入るべきなのに、信仰が停滞してしまえば、問題が起きます。聖霊に満たされなくて、何か苦しくて悩むようになります。自分ではよくやっているようなのに、他の人に認められなくて、みことばの権威や力が伴わないので、気を落として自分から苦しんだりします。
本当に信仰生活を正しくしていて、霊に入ったならば、その人はいつも聖霊に感じて動かされ、満されているし、聖霊の声を聞いて正確に導かれます。また、神様がともにおられる証拠があらゆる分野に現れ始めるのです。もしこのような証拠が伴わないなら、まだ捨てるべき悪があることを知らなければなりません。

2. 信仰が停滞しないで、すみやかに霊に突き抜けて入るには

(1) 罪との戦いをやめてはいけません
[テモテへの手紙第一4:5]に「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」とあります。聖められることには王道がありません。みことばを聞いて、自分の中の真理に逆らうものを悟らなければならないし、祈りによって発見したものが捨てられるように、神の力を受けなければならないのです。これは、適当にみことばを聞いて恵みを受け、いつものように祈る程度を言うのではありません。信仰の三段階くらいになれば、誰でも神のみことばを聞くことを喜びとしながら、祈りをやめません。
しかし、時が経つほど、罪を捨てようと熾烈に努力していた以前の姿が冷めていく場合があります。罪と熾烈に戦っていた時は、ささいなことでも罪の性質を発見すれば、心を引き裂いて、何としてでも罪を捨てようと、断食しながら徹夜で祈ります。このように、変わらず罪の苦い根の根まで引き抜いていけばよいのですが、それとなく要領を覚えて、休戦状態に入るのです。
戦場でも、一度優勢になれば、その勢いをかって完全に敵を滅ぼしてしまうべきですが、止まれば、敵軍が戦列を整えて反撃する余裕を与えてしまいます。霊的な戦いも、三段階をすみやかに突き抜けていくためには、まず「私はこのくらいにはなった」という霊的な怠けを警戒しなければなりません。みことばと祈りで罪の性質の根の根まで引き抜くよう、罪と血を流すまで戦うことを休んではいけないのです。

2) 肉の思いを打ち砕かなければなりません
「肉の思い」とは、心にある真理に逆らうものが魂の働きを通して現れるものです。[ローマ人への手紙8:6-7]に「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。心に真理だけがあれば、御霊による思いだけが出てきます。また、肉的なことも考えないし、肉の思いもしません。
しかし、真理に逆らうものがあると、魂が働いて、真理に逆らうものが思い出されます。まるで、コンピュータに間違った資料を入力すれば、間違った結果が出てくるようなものです。それで、肉の思いがある人は神のみことばに従うことができません。
例えば「仕える者が偉い者である、受けるよりも与えるほうが幸いである。」と聖書にあります。ところが、心に高ぶりと欲があると、このようなみことばを聞く時に「受けないで与えるだけなら、損をするのではないか?」「自分を表しても認められにくい世で、仕えて低くなれば、私はどれほど愚かに見えるだろうか?」このような肉の思いをするので、仕えることも与えることもできなくなくなります。このように神のみこころを理解することもできなくて、神のみことばに従えないので、「肉の思いは神に対して反抗する」とあるのです。
毎週の説教を聞いて、神は全知全能だし、神のみことばだけが唯一の真理であり、みことばに聞き従うことが幸いだと知って信じます。ところが、だんだん頭で知っている知識は多くなる一方で、知っているほど心に完全に耕せないと、聞いた真理のみことばを自分の悪と巧妙に結びつけて、新たな肉の思いを生み出します。みことばで自分の罪と悪を発見するべきなのに、かえって他の人をさばいて罪に定めたりします。また、自分の過ちを言い訳して正当化させるために、みことばの連れ合い(イザヤ書34:16)を無視して、一部分だけを適用したりします。そのような肉の思いのうち最も代表的なものが、自分の義と自分の枠です。

まず「自分の義」とは、簡単に言うと「私が正しい」と主張することです。自分の義が強い人は、相手も自分の義に従うように強いるので、人を苦しめることがよくあります。例えば、熱心に聖徒を訪問しなかったり、忠実でない人を見ると、自分の義が強い人は相手を悟らせようと「働き人といいながら、そんなに怠けていいでしょうか?」と指摘します。
あるいは、人がいるところで「私の周りに、これこれで怠ける人を見ました。私たちはそうしてはいけません」と言います。この時、本人や周りの人が聞けば、誰についてのことかすぐわかるような話をするのです。もちろん、熱心であることと忠実であることは当然であり、指摘して相手が恵みを受けて悔い改めれば幸いですが、相手がその言葉を受け止められなかったり、むしろ逆効果になったりすることもあるのです。「あの人が私の心を突き刺す」と思って、満たされなくなったり、つまずいたりすることもあります。
たとえ相手の過ちを諭さなければならないとしても、聖められたい心をもって上から知恵を受ければ、相手の心を感動させる善の方法が思い出されます。しかし、自分の義が強い人は、自分の知っている真理が正しいとだけ思うので、自分の方法が神様の心にふさわしくなかったし、それによって相手が傷ついたり、つまずいたりしたとしても、相変わらず「私は正しくて相手が悪い」とだけ思います。すなわち、内容が正しくて善だと思うので、方法が善でないとは悟れないのです。
それで「平和をつくりなさい、仕えなさい、さばいてはならない」、このようなみことばを聞いても「私は神様を愛して忠実な者だ」「相手を愛して諭した」と思います。このように「私が正しい」と思うことが自分の義であり、これによって自分の悪が発見できなくなり、聖められる道へとすみやかに進めないのです。また、自分はとても正しくて良い人のようなのに、他の人が避けたい人になってしまうかもしれないのです。

次に、「自分の枠」とは、「これだけが正しいことだ」と真理で自分なりに作った枠です。たとえば、皆さんが信仰生活に熱心なとき、神様を信じない親や夫としては、家族と遠くなったように感じるので、さびしく思うことがあります。このような時は、神の国に忠実であると同時に、家族の心と立場を思って、真理に従ってよく仕えて愛し、彼らの心を感動させるべきです。
ところが、自分の枠を作ると、家族の心をさびしくして傷つけるようになります。「私的な感情と欲を断ち切って、心に霊の愛を耕さなければならない」「家族の福音化のために祈る時も、神様にまず喜ばれてこそ、神様が感動されて、すみやかに働かれる」というみことばを聞きながら、自分なりに枠を作るので、真理を間違って適用するのです。
たとえば、ふだん親に仕えてもいないのに、「私は親より神様のほうが大切です。私にこの世の情を期待しないでください」と言います。親の誕生日に、親の心を感動させるプレゼントを贈るのではなく、伝道トラクトや聖書などを贈りながら、それが霊の愛だと思うのです。このようにして親の心を傷つけたり、伝道する機会をふさいでも、枠がある人は悟れません。自分は「神様の働きを熱心にして、親にも霊的に仕えて、全家に忠実な者になった」と思うからですが、「こうすることが真理だ、霊だ」と、自分が作った枠から抜け出せないのです。
しかし、本当に霊の心ならば、真理にあってあれもこれも良しとしなければなりません。たとえ自分のほうが正しいとしても、相手の信仰と状態に合わせるべきです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、相手の立場になって伝道した使徒パウロのように、善の知恵を授からなければなりません。
ところが、自分の枠が強い人は、自分が真理だと思うことにこだわるので、平和を破って自己中心的で、堅苦しい人だと言われる時もあります。ところが、いざ本人はというと「私は平和を破ろうとしたのではなく、真理に従っただけだ」と思います。このような枠の中に安住しているので、自分が発見できないし、信仰の成長が停滞するのです。
自分の義と自分の枠は、よく似ているように見えますが、はっきり見分けられます。ある人は、枠が強いけれど、自分だけその枠の中にとどまっていて、他の人までつらくさせません。すなわち、枠は強くて、よく打ち壊せないのですが、自分の義を強く打ち出さないのです。そうかと思えば、自分の枠が強くて、自分もその枠の中だけで行おうとするだけでなく、他の人もその枠に合わせるよう強いて、相手を苦しめる人もいます。しかし、自分の義や自分の枠は、結局真理に逆らうもので作ったものであり、これを通して働く肉の思いを打ち砕いてこそ、霊に突き抜けて入れることを心に留められますように。
みことばによって自分の姿を発見したなら、恵みが与えられている今の機会を逃さずに、すみやかに変えられますように。そして、罪がなくて聖い真心と、傷もしみもない全き信仰になり、神様に喜ばれる子どもと認められますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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