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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(12)

万民ニュース   第 76 号
6789
2009. 08. 30


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

1. 信仰の段階による行ないの違い

聖霊を受けて救われた信仰の一段階と、みことばどおり行なおうと努力する信仰の二段階を経て、努力し続けると、神のことばが守り行なえる信仰の三段階に至ります。このようにみことばを守り行なう人が、心にある罪の性質そのものも捨てると、信仰の四段階に入ります。すると、神様が待ち望んでおられる御霊の人の段階に入門するようになります。
信仰の四段階は「主をこの上なく愛する信仰」です。もちろん信仰の三段階でも「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)とあるように、戒めを守り行なうので、神様を愛すると告白できます。しかし、まだ心の罪の性質まで捨てたのでないので、少しは申し訳ない気持ちがあります。きよい心で信仰の四段階に至ったとき、大胆に「主を愛しています」と告白できるし、神様もその告白を喜んでお受けになるのです。
たとえば、[テサロニケ人への手紙第一5:16-18]に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。信仰の二段階ではこのみことばを聞いて知ってはいるけれど、試練や患難がやって来ると、喜べなくてつぶやいて祈りをやめたりします。しかし、信仰の三段階では、困難にあってもみことばどおり喜んで感謝することができます。
もちろん、三段階の入り口では、訓練があまりにも耐えがたく思われると、心から喜んで感謝することはできなくて、時には「なぜこんなことにあわなければならないのか」とつらく思うこともあります。しかし、直ちにこのような思いを退けて、みことばどおり感謝して喜ぶのが、信仰の三段階です。そのうち、三段階の中盤以上になると、このように思うことはほとんどなくなり、心から喜んで感謝するようになります。
一歩進んで四段階の信仰になると、大変な苦しみにあって、生死の境目に立っても、心の底から喜びが湧き上がるようになります。すべてのことを働かせて益としてくださる神の愛をはっきりと信じるので、現実はいくら苦しくて先が見えなくても、心はいつも喜んで幸せなのです。神のことばに聞き従うこと自体が幸せであり、神のみこころを行なうこと自体が喜びなのです。信仰の三段階の人がみことばどおり喜んで感謝するといっても、四段階の人とは差があります。
ある人は心が良くて、人によく仕えるので、相手の心が安らぐように、相手が何かを要求すれば全部聞いてあげようとします。ところが、相手があまり無理なことを要求すると、それを聞いてあげるけれど、「あんまりだ」と思ったりもします。しかし、相手をこの上なく愛すると、火も水も辞さないし、自分が大変つらくて苦しい立場にあっても、全くそう思わないのです。相手に喜ばれようとする心があるだけだからです。
このように、神様をこの上なく愛して、神のことばを喜んで行なう信仰の四段階に入ってこそ、神様が人間を耕される目的にある程度かなったと言えて、この時からまことの神の子どもと言えるのです。

2. 信仰の成長において重要な要素: 心、本性、器

ある人は長く信仰生活をしても、信仰の発展があまりにも遅いです。数年経ち、十年経っても、相変わらず信仰の二段階や三段階の入り口から先に進めないでいるのです。一方、ある人は初めて恵みを受けてから、みことばを聞いたら直ちに決断して罪と悪を捨てて、すみやかに霊の心を耕していきます。
このような差が生じる大きな理由の一つは、それぞれ生まれつきの心が違って、その器が違うからです。人によって心に真理に逆らうものがどれほど多いか少ないか、また、その本性がどれほどまっすぐで美しいのか、そして器がどれほど良くて大きいのかは千差万別です。これによって神のことばを慕う心と、そのみことばを心に留めること、そして、それをどのように行なうのかが変わってくるのです。

まず、心について説明しましょう。もともとアダムの心は神様が下さったいのちの種とその種を取り囲んでいる真理の知識でできていました。ところが、罪を犯してから、心にあった真理の知識が抜け出て、代わりに真理に逆らう知識、すなわち、罪と悪が入るようになりました。このように心に入った罪と悪がその子孫にも伝わって、その子孫は生きていきながら新たに罪と悪を自分で受け入れるようになります。ですから、人の心には、先祖から受け継いだ気の中にある悪と、育ちながら受け入れて作られたすべてのものが全部含まれているのです。心に悪が少ない人は、それほど捨てるものが少ないから、聖められるのも早いでしょう。

次に、どのような本性を持っているのかによって、どれほど切に善を追い求めるのかが変わります。まるで磁石でも鉄を引き寄せる力が強いものと弱いものがあるように、本性がまっすぐで良い人は、根本的に良いもの、完全なものを慕います。それで、真理を聞くとすぐ「アーメン」と言って、心を尽くして聞き従うので、すみやかに聖められるのです。
たとえを挙げると、肥えた良い地ならば、種を蒔くとすぐ芽が出て育ち、良い実もたくさん結べます。一方、やせた土には種を蒔いてもよく芽が出ないし、実を結んでも中が詰まっていないのです。もちろん良い地であっても、よく耕されていなくて土が固まっていて、雑草が生い茂っているなら、種を蒔いてもすぐに良い実を刈り取ることは難しいです。けれど、農夫が耕そうとする気になれば、やせ地よりは肥えた地のほうが雑草やいばらを抜き取ることもやさしいです。
これと同じです。ある人は良い本性を持って生まれたけれど、悪くつらい環境で育ったので、心に真理に逆らうものがたくさん入力された場合があります。この時は、雑草の多い畑のようで、訓練を受けて罪を捨てる過程が必要です。しかし、本性が良い人は、同じように真理に逆らうものを持っていても、聖められようとすると、それほど簡単に決断して捨てていけるのです。人からは悪くて荒々しく見えても、神様は本性の良い人は将来どのように変えられるのかご存じなので、訓練を通してきよくして尊く用いられるのです。

最後に、人の器があります。[テモテへの手紙第二2:20-21]に「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とあります。これは人の器のことを言っています。
器の材質、すなわち、金の器なのか銀の器なのか、あるいは土の器なのかは、本性と密接につながっています。一方、器の大きさは、どれほど真理に属するものを入れるかによって変わります。概して本性が良い人は、器もそれほど大きくて美しいし、器が大きくて良い人は、本性もまっすぐで良い場合が多いです。
器が大きい人は心遣いも広いので、真理を一つ聞くと、それよりもっと多くの分野で完全に真理で行なえます。「一つ聞けば十を知る」という言葉のように、神のことばを聞くとき、文字の上だけで聞くのではなく、根本的にその中に含まれた神様の心まで理解して従おうとするからです。
器が大きくて良い人は、神のことばを聞くとき、その意味を心に受け入れます。このような人はみことばをそのまま心に実現して、信仰がすくすく成長します。しかし、神のことばを心に受け入れないで、自分の枠と義に合うみことばだけを受け入れるなら、信仰の成長が遅くなるしかありません。みことばをたくさん聞いて学んだとしても、むしろそれによって心が高くなって、自分の義と枠がさらに固くなってしまったりします。
たとえば「人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。低くなって仕えなさい」このような神のみことばを頭で受け入れる人は、さまざまな思いを働かせるようになります。相変わらず心では自分のほうがすぐれているようで、相手の欠けているところが見えるけれど、「仕えなさい」というみことばを聞いたので、どうすれば良いのか計算するのです。自分の心の高ぶりはそのまま置いて、表面では相手に仕えたと言えるようにうわべで行なうことを探すのです。
「この程度までするなら仕えると言えるだろうか?」「そこまで仕える必要はないのでは?」このようにいつも計算して考えなければならないから、どれほどわずらわしいことでしょうか。このように自分からは熱心に仕えても、その心自体が低くなって仕えたのではないので、仕えられる方からも相手の真心が感じられなくて、気まずくなることもあるのです。
神のことばを心に受け入れて、心から自分を低くしようと努力する人は、どうしたら仕えることなのか、考えて悩む必要がありません。心そのものが低くなれば、言葉、行ない一つが自然にへりくだり、相手の立場を尊重して配慮する姿勢になるからです。こうなると相手はその人に対するだけでも安らいで、休むようになるのです。

本性と器について理解しやすいように、たとえを一つ挙げましょう。親が子どもに「部屋が汚いから掃除しなさい、物を散らかさないでちゃんと片づけなさい」と言うと、ある子どもは自分が散らかしたのではないと言って、言うことを聞きません。また、ある子どもは散らかした物を見えない所にしまいます。この場合は、親の言うことを仕方なく聞くふりはしても、親の心が何かは考えることも、それを心に受け入れることもしなかったのです。
もし親の言うことを本当に聞こうとして、それを心に受け入れるなら、どうするでしょうか? 見えない所まで隅々まで掃除するだけでなく、いつも部屋をきれいにしようと努力します。「掃除しなさい」という親の言葉の内には、見えない部分まできれいにして、いつもきれいにしなさいという意図があることを悟って、それを心に受け入れて従うのです。一歩進んで、家だけでなく自分の習慣そのものを変えて、よく整理する人、きれい好きな人に変えられるのです。
すべてのことが同じです。ふだん他人の言うことを心に受け入れて、ささいなことでも真実で忠実に行なう人は、神のことばを聞く時も、心に受け入れてすぐみこころを敬い、従うことができます。そうでなくて、自分の立場だけで考えたり、目の前の過ちを避けてみようと目隠しだけする人は、神のことばを聞く時も同じになりやすいです。
たとえ心と本性、器が生まれつきのものだとしても、皆さんがどれほど心を善に変えられるために努力するのか、また、すべてのことに心をどのように広く遣うのかによって、聖められる速度も変わってきます。
金の器であろうが、銀の器であろうが、器が大きかろうが小さかろうが、重要なのは自分の心の器をきよめることです。心に善を積みあげて、こまめに罪と悪を捨てれば捨てるほど、良い心と大きい器に変えられて信仰の成長も早いのです。


 

 

 
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