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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(13)

万民ニュース   第 77 号
7158
2009. 09. 27


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(ヨハネ14:21)


今回は信仰の一、二、三、四段階の違いを調べた後、信仰の四段階の特徴について語ります。

1. 信仰の一、二、三、四段階の違い

信仰の四段階は、主をこの上なく愛する信仰です。みことばどおり行なえる信仰の三段階を過ぎて、心の罪の性質までも捨てるので、完全に真理の中にとどまって、みことばどおり行なう段階です。
それでは、信仰の四段階と一、二、三段階にはどんな違いがあるでしょうか?
もしある人がとんでもない話をでっちあげて皆さんを謀略するなら、どうでしょうか? まだ信仰が少ない一段階や二段階の入り口なら、怒りがこみ上げてきて我慢しにくいので、すぐ相手のところに行って、何が正しいのか問い詰めようとします。わだかまりをもって議論して、語調が強くなったり、ひどい場合、荒々しい言葉で言い争ったりもします。しかし、神の子どもと言いながらこのような姿を見せるなら、とても恥ずかしいことです。信仰の二段階の中盤になっただけでも、悪を捨てるために熱心に努力してきたので、憤りや悪を目につくほど行なうことは、ある程度抑えることができます。
それでは、信仰の三段階はどうでしょうか? みことばどおり行なえるのが信仰の三段階ですが、信仰の岩の上に堅く立てられる前ならば、このようなことにあったら、感情が揺れ動いたりもします。真理を知っているので、「感謝しよう、喜ぼう」と心を治めて我慢するけれど、心の奥底から、完全に感謝がわき出ません。
一方、信仰の四段階に入った人は、どんな悔しいことにあっても、心が全然揺れ動かないのです。神の御前で罪を犯さなかったし、自分の心に責められることがないので、そのようなことで感謝と喜びが消えることはありません。むしろ、イエス様がそうされたように、敵をも祝福して、相手が罪を犯さないように憐れんで祈る心です。このように同じ状況でも、信仰に応じて反応が違うし、心の香が神の御前に立ち上る程度が違います。
たとえてみましょう。親が突然危篤になり、急に手術をしなければなりません。その時、お金がたくさん入っているカバンを見つけました。すると、信仰の一段階や二段階の入り口では、そのお金を自分が使ってしまうこともあります。信仰の二段階では、二つの心、すなわち、善なるものに従おうとする御霊に属する心と、自分の欲に従おうとする肉の願いが戦います。そのうちに「このお金はとても必要だ」と肉の願いが勝つと、良心の呵責は感じるものの、そのお金を使ってしまうのです。しかし、三段階になると、「このお金さえあれば問題が解決できる」と、しばらく真理に逆らう思いをすることもありますが、結局は正しい良心に従って、持ち主を捜します。
ところが、信仰の四段階になると、次元が全く違います。自分がいくら物質が必要でも、他人のものを取ろうという心そのものがないので、少しも悩みません。「持ち主はどれほど悩んでいるだろう」と心配になり、一刻も早く持ち主を捜そうとするだけです。
このような心になれば、神様の御前にも人の前にも、一点の恥もなく大胆になれるのです。心に悪があるので、人との問題や周りの環境によってつらくなり、悩むのです。心に悪がなければ、いつも聖霊に満たされていて、環境にかかわらず幸せで安らかなのです。

2. 信仰の四段階の特徴

1) どんな場合でも条件なしに神様を愛する信仰
信仰の四段階は、神様を愛するために努力するのではなく、自然に心の底から愛がわき出ます。何かの代価を期待して愛するのではなく、どんな場合でも愛するので、戒めを守る時も、何かの答えや祝福をいただくために守る、あるいは、戒めを守らないと災いにあうのか怖いから守るのではありません。私たちをまず愛された神様の愛を胸にしみるほど感じるので、神様を愛して戒めを守ることがあまりにも当然なのです。
ダニエルは、神様の前に祈れば獅子の穴に投げ込まれることを知っていながらも、感謝の祈りをささげました。「神様、助けてください。みこころを守ろうとして、命が危なくなりました」と、心配して悲しみの祈りをささげたのではなく、かえって安らかに感謝の祈りをささげました。神様を愛して、そのみこころを行なうだけであり、その結果については、ただ神様にゆだねます。それで、生きても死んでも感謝だけなのです。
ダニエルの三人の友だちもそうでした。偶像を拝まないなら火の燃える炉の中へ投げ込むという王の命令があっても、彼らは「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17-18)と告白しました。火の中からも救い出せる神様の力を堅く信じただけでなく、もしそうでなくてもかまわない、すなわち、生きても死んでも神様のみこころを行なうだけと思ったのです。
パウロとシラスもそうでした。福音を伝えて、数多くむちで打たれ、足かせをつけられ、深い牢に入れられましたが、少しでも神様を恨んでつぶやかず、これからどうなるのか、心配もしませんでした。むしろ御霊に感じて喜んで感謝して、神様に栄光をささげる賛美を歌いました。これが、信仰の四段階の姿であり、神様が願われるまことの子どもの姿です。ですから、この感動の賛美が響きわたると神様が働かれて、突然、大地震が起こって、獄舍の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまったのです。

2) 神様を第一に愛する信仰
神様を第一に愛すると、世の富と栄華も惜しくなく、家族や自分のいのちよりも神様を愛します。[ピリピ人への手紙3:7-8]で、使徒パウロは「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、」と告白しています。以前、大切に持っていたもの、世で尊く思われるすべてを、主のためにならちりあくたのように捨てられる、ということです。
[マルコの福音書10:29-30]にも「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』」とあります。
このように行なえば、初めは迫害されることもあり、信仰が少ない時はそのために苦しむこともあります。しかし、最後まで信仰が変わらずに聖別された聖徒の生き方をしていくと、結局は世の人々からも認められるようになります。しかも霊に入って、神様を第一に愛する信仰になれば、サタンが働けないので、迫害がなくなるだけでなく、むしろ周りの人々からも真実なクリスチャンだと尊く思われるようになります。
私も、主を受け入れてからは、主日を守るために家族や親戚の集まりに行かなかったし、目上の方に酒をすすめないなど、以前とは違う姿を見せると、初めは家族や親戚がさびしく思ったりしました。しかし、時間が経つほど、家族や親戚も私をもっと愛して信頼するようになって、私たち家族に配慮して、さまざまな行事も主日を避けるようになりました。
このように、皆さんが本当に信仰をもって行なって妥協しなければ神様が働かれます。そして、ついに神の栄光を現すことができるのです。
しかし、誤解してならないのは、肉の家族より神様のほうが大切で、肉の情を断たなければならないからといって、それが家族に冷たくして、当然すべきことをしなくてもよいという意味ではない、ということです。
神様の戒めを破るのでないなら、むしろ神を信じない人よりもっと家族に仕えて、親、子、あるいは家族の一員として、全家を通じて忠実でなければなりません。主を信じない家族も、その姿を見て感動して救われるようによく仕えることが、神様のみこころでもあるのです。ただし、創造主であり、私たちの霊と魂を生んでくださり、地獄の刑罰から救い出してくださった神様を信じるなら、誰よりも神様を愛することが当然なのです。
このように、神様を第一に愛するなら、善と愛をもってすべての人に仕えて、すべてのことに相手の益を先に求めるようになります。ですから、周りの人々をまことに霊的に愛することができます。
ですが、このような信仰の水準に至らなかった人は、信仰の大きい人が理解できないので、自分の立場に合わせて誤解することがよくあります。たとえば、ある人は「アブラハムがイサクをささげたとき、ひどくためらって、苦しみながら山に上った」と言ったりします。
しかし、アブラハムの信仰はそのような水準ではありませんでした。アブラハムは、神様が命じられることに全くためらったり、葛藤したりしなかったのです。イサクを生き返らせてくださることを確かに信じただけでなく、もしそうでなくても、神様が「イサクのいのちをささげなさい」と言われるなら、感謝してささげられる信仰でした。いくら大切なかわいいひとり子であっても、神様は自分と息子のいのちを下さった主人なので、そのいのちをささげなさいと言われるなら、いくらでもささげられるのです。したがって、アブラハムはためらうことも、苦しむこともなく、ただ喜んで聞き従いました。その結果、信仰の父という、とても大きな祝福をいただくことができたのです。

[箴言8:17]に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあるように、神様を第一に、どんな場合でも愛するとき、神様のほうからも、そのような子どもをこの上なく愛して、いつも神様を見つけるように働いてくださいます。魂に幸いを得ているように祝福して、すべての点でも幸いを得て、健康であるようにし、この地上でも天の御国でも輝かせてくださいます。
このように魂に幸いを得ている祝福については、次に語ります。


 

 

 
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