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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(16)

万民ニュース   第 85 号
6198
2010. 02. 14


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は、人間耕作を受けて肉の性質を捨て、御霊の実を結びながら日々信仰が成長して、信仰の四段階に入った人が将来受ける天国の栄光について語ります。

1. 霊が生き返って御霊の人になれば

霊とは「朽ちないで変わらないもの、永遠でまことのもの」です。[ヨハネ4:24]に「神は霊ですから」とあるとおり、創造主の神の属性でもあります。神様は人を造られたとき、聖であり永遠である神の属性の一部を分け与えられました。それで、最初の人アダムはいのちの息が吹き込まれて、生きものとなったのです。しかし、アダムは罪を犯したので、永遠でまことである霊の属性を失って、肉にすぎない存在に堕落してしまいました(創世記6:3)。
肉とは「霊と反対になるもので、変わるもの、朽ちるもの、醜くてむなしいもの」です。アダムが罪を犯した後に生まれた人々は、みな肉の人として生まれました。それで、彼らがすべき重要な課題は、肉の人から御霊の人に帰ることです。そのためには、聖められればよいのです。心の罪と悪を捨てるとき、すなわち、朽ちて変わる肉の属性を捨てるとき、霊である神のかたちが取り戻せます。このように御霊の人に変えられれば、最初の人アダムが持っていた霊の属性を取り戻すだけでなく、それよりもっとうるわしい神の子どもたちになります。
最初の人アダムはその鼻に神のいのちの息を吹き込まれた「生きもの」でした。これは、いのちの息、つまり神の霊が吹き込まれたので、神様と交わる存在になったという意味でもあります。しかし、自由意志によって罪と悪を受け入れて、肉にすぎない存在に堕落してしまい、神様との交わりができなくなったのです。
最初の人アダムは死と涙、悲しみ、苦しみはもちろん、肉がどれほど悪いものか、体験したことがありませんでした。そのために神様がいくら「霊は良いもの、肉は悪いもの」と教えてくださっても、心に留められなかったのです。
一方、人間耕作を受けて、肉から霊に変えられた人々は、肉がどんなものなのか骨身に凍みるほど体験して、反対に、死がなくて悲しみと苦しみがない霊がどれほど良いものかをとてもよく知っています。ですから、どんなに惑わされても、再び罪と悪を受け入れないのです。まさにこれが、私たちがこの地上で人間耕作を受けている意味です。
このような人間耕作を通して世のすべてのものがむなしいことを悟って、熱心に霊を慕って、信仰の一段階から二段階、さらに三段階に入って、ついに信仰の四段階になったとき、御霊の人に帰るのであり、神の子どもとされた特権と祝福が思いきり受けられます。

2. 信仰の四段階の人が入る三天層の祝福

行なったとおり報いてくださる公義の神様は、天国の場所と報いも、信仰の量りに応じて与えられます。もちろん、すべての天国の場所はこの地上とは比べられないほど幸せなところです。どんな真理に逆らうものも、暗やみもないところであり、愛と喜びだけがあるところです。天国のあちこちには美しい天使がいて、甘美な賛美が流れて、うっとりするほど美しい環境の中で愛する人々と永遠に生きていきます。このような天国の栄光も、信仰の四段階と信仰の三段階、すなわち、御霊の歩みに入ったのとそうでないのとには、大きい違いがあります。
たとえば、パラダイスや一天層、二天層には多くの天使がいて、天国を管理して、時に応じて神の子どもたちを助けます。しかし、二天層以下では、ひとりひとりに個人的に付き従う天使がついているのではありません。三天層以上の天国に入ってこそ、個人的に付き従う天使がいるのです。その中でも、どれほど聖められたのか、どれほどより大きい信仰と従順の行ないで神様に喜ばれたかによって、付き従う天使の数が変わるのです。
雲の自家用車に乗るのも、三天層以上に入らなければなりません。天国にある雲は天国の栄光と美しさを増すために造られた、一つの装飾品のようなものです。エジプトから出てきた当時、神様がモーセに現れた時も、雲の中に降りて来られました。また、イエス様が変容山に登られた時は、雲の中から神様の御声が聞こえました。
[マタイの福音書26:64後半節]には「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」というイエス様のことばが記されています。その他にも、聖書のあちこちに出てくる天国の雲は、神様の栄光を表す装飾品のようなものです。それはまるで自家用車のように、神の子どもたちを乗せて行きたい所に移動するようにしてくれるものです。新しいエルサレムの栄光に入った人々でこそ、個人所有の雲の自家用車が与えられます。三天層に入った人は共有の雲の自家用車に乗れます。
この他にも、二天層以下の人々と三天層以上に入った人々には、表の姿だけ見ても大きい違いがあります。各人から放たれる栄光の光が違って、服と服の模様、ついている装飾、ヘアスタイルなどが違い、その人がどれほど主に似せられて聖められた人なのか、どれほど神様の愛される人なのかがすぐ見分けられます。
そのような特徴の一つが、女性の場合、髪の長さです。男性はみなが首の線くらいまでですが、女性の髪は報いによって長さが変わってくるからです。[第一コリント11:15前半節]に「女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。」とあるように、三天層と新しいエルサレムの女性には、長くて見事な髪が栄光ある報いとして与えられます。新しいエルサレムでは、脊椎の端まで届くくらいの長い髪を持つようになり、三天層ではそれより少し短くて、脊椎の中ほどまでです。

それでは、三天層の家はどのように建てられているでしょうか? 二天層の建物は一階建てです。一方、三天層からは二階建てで、純金と宝石で飾られていて、美しくて香り高い花と木で飾られた庭園と湖があります。湖の中にはたくさんの魚がいますが、その魚たちとほほえましい会話をすることもできます。
もちろん、二天層でも、個人の家についている湖を持つこともできるし、ゴルフ場でも、水泳場でも、散歩路でも持つこともできます。ただし、どんな施設でも一つだけ選べます。しかし、三天層は一つだけでなく、願うものをみな所有することができます。こういう施設がある三天層の邸宅は、世の億万長者でもまねできないほどうっとりするように飾られています。
ただし、二天層と違う点は、家に表札がないということです。家そのものからその主人の心が感じられる独特の香りが流れているので、主人が誰なのかが自然にわかるからです。各人の霊的な香りが違うように、その家から流れる香りが違うだけでなく、家から放たれる光も、それぞれ違うのです。
天国には、この地上の動物とは比べられないほど、美しくて華麗で、賢くておとなしい動物と鳥がいます。天国の聖徒たちを楽しませてくれるし、互いに話をすることもできます。三天層では、天国の動物と鳥がペットのように個人に与えられますが、これは二天層にいる動物よりもはるかに華麗で美しいし、かわいいです。
一天層や二天層にそれぞれの冠があるように、三天層に入った人々にも、三天層にふさわしいいのちの冠が与えられます(ヤコブ1:12)。[ヨハネの黙示録2:10後半節]に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」とあります。ここで「死に至るまで忠実である」とは、殉教の信仰をもって神の国のために忠実を尽くすことを言います。与えられた使命を果たすだけでなく、世の真理に逆らうものと妥協せずに、罪と戦って、血を流すまで抵抗して捨てた人、完全に聖められた人でこそ「死に至るまで忠実であった」と言えます。
三天層に入った人々は聖められて、いのちを尽くし、死に至るまで忠実であった人々ですから、それに対する報いとしていのちの冠を受けるのです。たとえ完全に聖められなかったとしても、主の御名によって信仰をもって殉教した人々は、三天層にとどまるようになって、いのちの冠を受けます。もちろん、殉教するからといって、誰でも三天層に入るわけではありません。
たとえば、ある人が病気になりましたが、最後まで病院や人に頼らないで神様だけに頼ったとしましょう。それでも、その心と信仰はそれぞれ違います。本当に全能の神様を愛して信頼し、主だけに頼った場合は、もし神様がいやしてくださらないで、その魂を召されたとしても、殉教したと同じだと認められることがあります。
しかし、信じられる信仰があるからではなく、聞いた知識によって、あるいは「私は信仰がある」という自尊心ゆえに病院に行かなくて、ただ持ちこたえたといえば、結果が違ってくるのです。ですから、殉教したとしても、まことの信仰と愛でいのちをささげた人でこそ、各人の心をご覧になる神様が三天層に入れて、いのちの冠が与えられるのです。


 

 

 
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