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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(18)

万民ニュース   第 87 号
9974
2010. 03. 14


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

今回は、信仰の三段階と四段階の心の違いについて調べて、単に悪がない信仰の四段階の入り口よりさらに善の実が心に完全に結ばれた段階について語ります。

1. 心が全く違う信仰の三段階と四段階

信仰の四段階になれば、「きよい器が備えられた」ようなものですが、その中に入るべき御霊に属するものがまだすべて満たされたのではありません。心に罪と悪はありませんが、「肉の痕跡」が残っています。キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためには、肉の痕跡までも捨てて、真理の実を完全に結ばなければなりません。
ところが、信仰の四段階の入り口と信仰の三段階の終わりが似ているように見える場合があります。たとえば、信仰の三段階の終わりにいる人が他の人の働きに干渉して、すべてにおいて自分の思い通りにしようとするのは、たいてい自分の悪から出てくることです。相手がつらくなっても、自分の益に合うこと、自分の意思を貫徹させようとする心が残っているからです。
しかし、信仰の四段階ではこういう悪い心がありません。私心があって自分の益のためにしようとするのでなく、神のみこころをもっとよく実現するために真理に従って行ないたいと願うだけです。もし目下の人々が聞き従わなくても、相手に対してもどかしい心はあるけれど、それによって悪い感情をいだいたりはしません。
うわべでは、信仰の三段階の終わりにいる人と大きな違いはないようですが、神様の前ではふたりの心は全く違います。前者は心と行ないがどちらも悪いと言われますが、後者はまだ完全でないだけで、悪だと罪に定められないのです。しかし、いくら悪い意図がなかったとしても、徳をもって行なえなかったことについては、必ず悟って変えられなければなりません。

2. 単に悪がない四段階の入り口よりさらに善の実が完全に心に結ばれた場合

私はどんな働きでも、一度任せたら全面的に担当者を信じて、自分が望む方法を強いたことがなく、自分の心に合う方法でしないからといって、途中でその使命を他の人に任せたことがありません。直接指示すれば結果がはるかに良いし、試行錯誤もないかもしれませんが、それでは働き人を育てることができません。働き人が自分の力量で最善を尽くし、時には失敗を通しても学んでいくことで、神のみこころをわきまえる方法を悟るようになって牧者と一つになり、能力が育つように、最善を尽くして配慮するのです。
このように、働き人を育てるためにも、心に悪がないだけでは足りません。愛、柔和、平安、善意、寛容、自制、このような御霊の実が豊かに結ばれていてこそ、できることなのです。しかし、注意することは、心の悪をすべて捨ててもいないし、自分の益を求める心、自分の義で行ないながらも、「私は自分の益を求めているのでなく、神の国のためにそうなのだ」と、自分の悪をおおう人がいるということです。
ですから、自分の心を徹底的に顧みなければなりません。自分が本当に他の人の心と立場を考慮して、安らかな心で仕えているのか? すべてにおいて他の人の益をまず求めようとしているのか? どんな状況でも心に揺れ動くものやわだかまりがなくて、悪をもって向かってくる相手に対しても、温かく柔和に愛で対しているのか? 心から真理を喜び、自分より他の人が栄えていることを幸せに思うのか?
こういう質問に対して、いつも「アーメン」と答えなければなりません。「時々そうだ」とか「恵みに満されている時はそうできる」というのでなく、「いつもそうだ」と返事できるでしょうか? そうできるならば、神様は皆さんの信仰が四段階だと認めて、皆さんの人生でともにおられる証拠を現してくださるでしょう。
私たちが信仰の四段階に入って、きよい心の器を備えたとしても、完全になるためにはその中に御霊に属するものを満たさなければならないと言いました。それでは、御霊に属するものが満たされていくとは、どんなことでしょうか?
聖書には、神様がアブラハムを祝福されたとき、おいのロトもアブラハムによって祝福された記述があります。ところが、アブラハムとロトの家畜がはなはだ多くなると、アブラハムの牧者たちとロトの牧者たちの間に草と水を求めて争うようになりました。それで、アブラハムが平和をつくる解決策を提示して、ロトはアブラハムの提案によりアブラハムから離れるようになりました。
こういう状況で、もしアブラハムが信仰の三段階にいる人だったら、ロトに対して気まずくなり、物事をはっきりさせようとしたかもしれません。ただし、三段階の終わり頃になったら、真理をよく知っているので、心には気まずさがあっても、表に感情を出さなかったでしょう。
それでは、信仰の四段階に入ってきた人はどうでしょうか? この時は、根本的に心に悪い感情そのものがありません。その状況で一番合理的な解決策を見出し、互いに分かれようと提案はできますが、心に悪がないので、相手に対して気まずくなったり、嫌ったりするのではありません。「牧者たちが互いに争うのを見ると、私たちが平和をつくるためには別れなければならない。私はこちらへ行くから、あなたはあちらに行きなさい」と言って、アブラハムのほうから行き先を決めることもできます。アブラハムには十分に先に選択する権限があって、彼はすでに御霊の歩みに入った人ですから、先に選択するとしても自分の益を求めるはずはないでしょう。
ところが、肉の人が見ると、まかり間違えばさばいて罪に定めるかもしれません。「アブラハムにわだかまりがあって、ロトを別れさせるんだな」「自分の欲に従って良いほうを選んで、相手に従うように要求している」と思うのです。三段階の終わりの人や四段階の入り口の人を目に見える行ないでだけ見ると、似ているからです。しかし、肉の人が他の人の心を推し量ることはできないし、しかも御霊の人の心にある深いことは、肉の人にはわかりません。
[第一コリント2:15]に「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」とあるとおり、自分が御霊の歩みに入って、御霊に導かれる者になってこそ、聖霊の働きのうちに正しい、正しくないが正確にわきまえられるのです。人が相手の行ないだけを見て、肉の限界の中で善悪をわきまえるよりは、まず自分の心から悪を捨てることが大切です。ところで、アブラハムの場合は、単にわだかまりがない程度を越えて、もっと善の心でロトに仕えました。
[創世記13:8-9]に「そこで、アブラムはロトに言った。『どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』」とあります。互いに平和が保てる方法を提示しながらも、ロトの心が安らかであるように願って、ロトが良い土地を先に選んで行けるように配慮したのです。こういう姿を見ると、アブラハムにはすでに心に御霊の実が豊かに結ばれていたことがわかります。単にわだかまりを持たない次元にとどまらず、善をもって悪に報いることができる心です。
信仰の四段階でも、御霊の実でもっと満たされた分、口から出る言葉と行ないがもっと徳があって感動的になります。御霊に属するものが50%、80%と満たされて、ついに100%になったとき、完全に真理で満たされた すべてにおいて御霊に導かれる心になるのです。
また、心に真理が満たされる分、神様にもっと喜ばれるほうを選ぶことができるようになります。ある状況で、これもあれも良く、二つとも真理に外れないならば、信仰の四段階のまだ入り口にいる時は、特に考えないで自分が願うほうを選ぶことがあるでしょう。しかし、御霊の実が心に満たされた分、神様の心をさらに深く推し量れるようになるので、自分にとって良いほうを選ぶよりは、神様にもっと喜ばれるほうを選ぶのです。
たとえば、ダビデは王として油注がれた後、サウル王が自分を殺そうと長い歳月追い回したので、いつも命が脅かされていました。ところが、ある日、ダビデにサウルを殺すことができる絶好の機会が訪れました。ダビデが隠れている場所にサウルが入ってきて、深い眠りに落ちたのです。[サムエル記第一24:4]を見れば、ダビデの部下たちが「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」と言って、すぐにサウルを殺そうと主張したのです。
しかし、ダビデはサウルを殺しませんでした。サウルを殺すことが悪でなくても、ダビデはそれよりもっとすぐれた善を選びました。サウルは自分が仕えた王で、一時、神様の前で油注がれた人です。そのようなサウルがいくら悪い者であり、それによって自分が害を受けるかもしれなくても、神様に油注がれた人に危害を加えないで、ただ神様にゆだねるほうを選んだのです。
このように、信仰の四段階でも、心に御霊に属するものがどれほど満たされたかによって、ただ悪がない次元から全き善の次元へと近づくようになります。信仰の四段階の入り口でも、人によって満たされた分野は違います。ある人は愛と柔和がすぐれていたり、ある人は柔和の実は少なくても、犠牲と仕え、忠実がすぐれていたりします。いくつかの実だけ結ばれていたり、時々、完全に御霊に導かれているように行なうからといって、信仰の五段階に近いと言えません。
ですから、信仰の四段階も、訓練を通してあらゆる分野で完全に主に似せられるように、変えられ続けなければならないのです。愛の章の愛と八つの幸いの実、御霊の九つの実と光の実など、真理の実が完全に結ばれて豊かになるとき、はじめて信仰の五段階に入って、全く聖なるものとされた、と言えるのです。
次は、どうすれば訓練を通して信仰の四段階から五段階に入れるのかを語ります。


 

 

 
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