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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(19) いのちのみことば

万民ニュース   第 88 号
6245
2010. 03. 28


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

1. 神様と真実の愛を分かち合うには信仰の四段階以上に入ってこそ

愛の神様はイエス・キリストを受け入れた神の子どもたちに、あまりにも尊い救いの恩寵を与えてくださいました。罪のため地獄に行くしかなかった魂に永遠のいのちを与えて、天国に入るようにされたのです。それだけでなく、神の子どもたちがこの地上で生きている間も、霊の信仰をもって求めさえすれば、求めるものは何でも細やかな愛をもって答えてくださいます(マタイ8:13)。
ところが、なぜ「私は熱心に求めたのに答えられなかった」と言う人々がいるのでしょうか? それは、神様が認められるほどの信仰の証拠がないからです。神のみことばをどれほど信実に守って、心の罪と悪を捨てたのか、これが信仰があるという証拠であり、信仰を量る尺度なのです。それで、神様に似せられた聖なる子どもになるほど信仰が大きくなり、信仰が大きくなるほど簡単に答えられ、さらに多くの祝福が受けられるのです。
聖霊を受けて救われた神の子どもであっても、その信仰が足踏みしたり、むしろ退歩したりすれば、神のみわざを体験しにくいのです。ですから、救われて信仰の一段階になったとすれば、熱心に神のみことばを聞いて行ない、信仰の二段階、三段階へとすみやかに入らなければなりません。そして、完全に神のみことばのうちにとどまり、信仰の四段階以上に入る時でこそ、神のまことの子どもとして何でも大胆に求めて答えられます。信仰の五段階に入れば、心にいだいた願いまでも神様のほうで先に答えてくださるので、すべてにおいて神のみわざを体験して、食べるにも飲むにも、いつも神の栄光を現すようになるのです。

2. 信仰の四段階から五段階に入るために御霊の人が受ける訓練

信仰の四段階に入った人は心の罪と悪を捨てた御霊の人であり、きよい心の器が備えられた人です。しかし、それだけではまだ完全とは言えません。その中に御霊に属するものがぎっしり満たされて、真理の実が豊かに結ばれていなければなりません。その時、肉の痕跡までもなくなり、完全に主に似せられた、全く聖なるものとされた人になります。言葉と行ないが主のように完全で、すべてにおいて周りの人に恵みとなり、徳を現し、神様に最も喜ばれることをわきまえて、そのまま行なうのです。
[エペソ人への手紙4:13]に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあり、[同15節]には「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。このようになるためには、御霊の人も訓練を受けます。
それなら、信仰の四段階から五段階に入るために御霊の人が受ける訓練とは、どんなものでしょうか? 三段階以下では、人に罪と悪があるので敵である悪魔が訴えて、サタンの権限のもとで訓練を受けるように神様が許されます。しかし、四段階からは神様がご自身で練られて、残っている肉の痕跡まではぎ取って、全き実で満たされるようにしてくださるのです。
たとえば、ヨブは神様を恐れて正しく生きた人です。しかし、信仰の三段階の終わりにいる人だったので、心の悪まで捨てたのではなく、神の戒めを熱心に守り行ないました。けれど、ヨブの心の奥底には神様に対する恐れがありました。父なる神様の心がわからなくて、その愛が信頼できないので、心に不安と恐れがあったのです。恐れがあるということ自体が全き愛でなく、御霊に属する心になれなかったことを物語っています(第一ヨハネ4:18)。ですから、サタンが神様の前でヨブを訴え、神様が許されたので訓練が始まります。
途方もない財産と子どもたちを一日で失って、全身に悪性の腫物ができ、妻はヨブを呪って離れてしまいました。初めはよく耐えていたヨブですが、訓練が激しくなって限界を超えると、深く隠されていた悪が現れ始めます。自分を生んだ親を恨んで、自分がどんな過ちを犯したか、災いを与えるから神様は正しくないお方だと、神様に立ち向かうことまで言うようになります。行ないでは大変正しいヨブでしたが、自分自身も知らない深く隠された悪があって、これによってサタンがヨブを訴えて、災いをもたらすことができたのです。
もちろん、聖徒がただ心に悪があるだけで災いにまであうのではありません。たとえ罪と悪がすべて捨てられなかったとしても、おのおのの信仰の量りに応じて努力している時は、神様が災いにあわないように守ってくださいます。
しかし、ヨブは特別な場合でした。試みを通して心の中に深く隠された悪が現れてこそ御霊の歩みに入れるので、神様はサタンの訴えを受け入れられたのです。ヨブは訓練を通して自分を発見して、心の根にある悪まで捨てました。行ないだけで正しくする三段階の信仰でなく、心の罪と悪まで捨てて四段階の信仰になりました。この時からは、前に比べて二倍に祝福されました。このようにヨブが受けた訓練も、神様が彼を変えさせようとした祝福の訓練です。しかし、これはサタンに任せられて受けた訓練であったし、神様ご自身がなさる信仰の四段階の訓練とは違います。
敵である悪魔・サタンの権威は闇に属し、罪と悪がある人を支配することができます。四段階に入った人には罪や悪がないので、サタンが災いや病気をもたらすことはできないのです。時には信仰の四段階の訓練が三段階の訓練と似ているように見えますが、その過程や結果には、はっきりした違いがあります。
たとえば、ヨセフは練られている間も、いつも神様がともにおられたので、何をしても成功したし、それが周りの人にも感じられました。神様が炎のような御目で守りながら、もっと心を完全に変えて、肉的にも将来、エジプトの統治者になれる資格を備えるようにされたのです。このように信仰の四段階の訓練は全きものにするために神様がともにおられ、何をしても成功するようにされる中でなされます。
三段階と四段階の訓練の違いをもう少しよく理解できるように、ダビデを例に説明してみます。ダビデがまだ御霊の歩みに入る前のことです。王になった後に、自分の過ちを隠すために、ウリヤを異邦人の手で殺させる罪を犯しました。これによってダビデはサタンに訴えられて、その後、あまりにも大きい訓練を受けるようになります。バテ・シェバが産んだ息子が死に、別の息子アブシャロムが反乱を起こしたので、いのちが脅かされながら追われなければなりませんでした。もちろん、ダビデは預言者ナタンが責めた時に悔い改めましたが、犯した罪に対してはサタンが訴えたので、試練、患難にあわなければなければならなかったのです。
このような訓練を通してダビデは徹底的に低くなって、神様の前にふさわしい心に変えられました。ところが、歳月が流れた後、御霊の歩みに入ったダビデに、神様はもう一つの訓練を受けることを許されます。ダビデの心が動いて、イスラエルの人口を調べました。これは戦争に出て行ける人数を調べることです。このこと自体が、わずかな間でも神様だけにより頼めず、人の力に頼ろうとすることになってしまいました。これを悟ったダビデは直ちに悔い改めましたが、すでに大きい訓練の道に入ってしまったのです。イスラエル全地に疫病が臨み、あっという間に七万人が死んでしまいました。
ある人々は、ただダビデの高ぶりのゆえに神様が懲らしめられたと考えます。しかし、これは王として十分にありうることであり、ダビデが何か悪い意図を持ってしたことでもありません。ですから、人のほうからは「王が罪を犯した」と罪に定めるほどのことでありません。しかし、完全であられる神様のほうからご覧になると、「あなたはわたしだけにより頼まなかった。あなたは高ぶっている」と言われるのです。こういうものが聖められた後も残っている「肉の痕跡」なのです。神様はこれさえなくして、ダビデを全きものにするための訓練を許されたのです。
実は、民に疫病が臨んだ理由は民が犯した罪によって神様の御怒りをかったからです。[サムエル記第二24:1]に「さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は『さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。』と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。」とあります。しかし、ダビデは自分の行ないがきっかけで民が死ぬのを見ながら、ひどく心を痛めたし、徹底的に立ち返りました。結局、神様は民を懲らしめながら、合わせてダビデを練られたのです。
それで、訓練を受けたといっても、サタンがダビデに患難をもたらしたのでもないし、直接災いにあったのはダビデではありませんでした。むしろこの後、神様はダビデのいけにえを受け入れられたので、イスラエルの災いを終わらせました。このように、変わらず彼とともにおられることを見せてくださったのです。
もちろんサタンは御霊の人に対しても、何としてでも訴えることを探そうとします。それで、時には悪い人々を唆して御霊の人を苦しめるように見えますが、結果は神様がすべてを働かせて益としてくださるので、必ず祝福の道へと帰るのです。

愛する聖徒の皆さん、[第二コリント11:28]には、使徒パウロが主のために受けた数多くの苦しみを数えたあげく、「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」と告白しています。ヨブが受けた試練がいくら大きかったとしても、使徒パウロはこれより大きい苦しみを、想像できないほど受けなければならなかったのです。しかし、パウロはそのすべてより、むしろ教会への心づかいがもっと心に押しかかると言っているのです。これだけを見ても、パウロが受けた心の訓練がどれほど重かったのか、十分に察することができます。
しかし、四段階の訓練がいくら重いとしても、訓練を受けている本人はそれを苦しいと言いません。心に悪がないほど、そして神様を愛する心が大きいほど、打ち勝つ力があるからです。訓練によって悲しむとしても、心の奥深くでは喜びと感謝が絶えずわき上がってくるのです。
次は「信仰の量り」の最終回で、信仰の五段階について語ります。


 

 

 
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