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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(22)

万民ニュース   第 91 号
6441
2010. 05. 23


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」 (マルコ16:16-20)


1. 数えきれない祈りを積み、しるしと不思議が現れる信仰の五段階

信仰の一、二段階では、おもに職場、家族、病気、物質の祝福など、自分のために祈りますが、それさえも長い時間、祈ることはできません。ますます信仰が成長して神の国と義のために祈るようになるにつれて、祈りの量が増えます。そうするうちに心から切に求める時には、御霊に導かれて、まるで自分のことのように課題一つ一つを祈るようになります。夜を明かして祈っても、祈りが途絶えません。
信仰の四段階もそうですが、五段階に入れば、物質でも健康でも、必要なものは心にいだいただけで神様が先に答えてくださいます。ですから、個人的には求めることが特にないし、すでに心の罪と悪まで完全に捨てたので、聖められるために祈る必要もありません。このように自分は神様に祝福されて、欠けているものがありませんが、神様をこの上なく愛するので、また、死にかけている魂を思うといても立ってもいられないので、神の国と義のために切に祈るようになります。
ところが、神の国のために祈ってみると、何よりも霊的な力を受けなければならないことを痛感するようになります。<コリント人への手紙第一4:20>に「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」とあります。神の国を実現することは、人を滅びに引きずっていこうとする悪い霊どもに対する霊の戦いですから、人の知恵や経験、力でするのではありません。
伝道したり聖徒を訪問したりする時も、ひとりの魂を教会に連れてくることから、ついにその魂が自分で信仰を持って信仰生活ができる時まで、人の力でできることではないのです。もちろん、人のほうでは最善を尽くして時間と物質と心を注ぎこまなければなりませんが、それと同時に、必ず神の力が臨んでこそ人の心が変えられて、信仰を持つことができます。
神の力を受けていない人が十回訪問しても変わらなかった人が、神の力を受けた人が訪問すれば、直ちに魂を砕いて罪を告白して、信仰がすくすく成長していくことも見られます。ですから、伝道して聖徒を訪問してみると、人の力と方法に限界があることを痛感するようになって、魂を救おうとする熱い心で切に神の力を求めるようになるのです。
<ヨハネの福音書4:48>に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」とあります。ここで「しるし」とは、人が行なえる限界を超えて神の力が現れることを言います。神の力で死んだ者を生かしたり、わずらいや病気をいやしたりなど、聖書には多くのしるしが記されています。また、「不思議」とは、天気を動かすことを言います。たとえば、祈って雨や雹を降らせるようにしたり、太陽と月が動くのを止めて、風と波がしずまるようにしたりするなどがそうです。このようなしるしと不思議を目撃して、生ける神を体験すると、数多くの人々が一度に回心して主を受け入れます。それで、信仰の四段階、五段階に入れば、より大きく完全な力を受けようと、もっと切に祈るようになるのです。
それなら、神の力を受けて霊の世界のみわざを現すためには、どうしたらよいでしょうか? まず聖められなければなりません。その土台の上に、神様に喜ばれる祈りを無数に積まなければなりません。まだ聖められていない信仰の一、二段階では、熱心に祈っても祈りの香が細いのですが、信仰の五段階はいつも聖霊に満されているので、祈ると直ちに太くて美しい香として立ち上るのです。また、父なる神様に似せられた心で求めると、その祈りには善と真実がにじみ出て、祈る内容がすべて父に喜ばれる香になり、天の御座がとどろくような祈りになるのです。このような感動的な祈りを昼も夜も積み上げると、神の力が臨むようになります。

2. 神様に喜ばれる信仰の証拠として信じる人々に伴うしるし

<マタイの福音書16:17-18>に「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」とあります。神の力によって行なうわざはこの他にもたくさんありますが、ここでは代表的な五つだけ挙げたのです。それでは、神様に喜ばれる信仰の証拠として信じる人々に伴うしるしとは、何を意味しているのでしょうか?

1) イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出し
今日、多くの人々が悪霊はいないと思っていますが、聖書には確かに悪霊の存在が記されています。イエス様も悪霊につかれた人々をいやされ、イエス様の弟子たちや使徒パウロも、悪霊を追い出したことがわかります。今日も悪霊や悪い霊どもに苦しめられている人々がいますが、このような場合は医学的に治療することが不可能です。
ところが、<ヨハネの福音書1:12>に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。このように神の子どもとされた特権を受けたので、私たちも十分に闇の勢力を退けて、悪霊を追い出さなければなりません。
霊的にも、光である神様のみことばを守り行なうほど、暗やみである悪い霊どもを制して退けられるのです。信仰の五段階に入って、完全に光の中にとどまれば、主の御名によって悪霊を退けることはもちろん、伝道して聖徒を訪問する時も、敵である悪魔・サタンが働けません。ですから、相手が心の扉を簡単に開いて、権威あるみことばによって恵みを体験することができるだけでなく、一歩進んで真理に逆らうものと戦って捨て、みことばを守り行なう力も受けられるのです。
ここでもう一つ覚えておくべきことは、神の力を受けた信仰の五段階の人が退けても、いつも悪霊が退くのではないということです。たとえば、本人や家族、先祖がひどく偶像を拝んだり、多くの悪を積み上げたのに、真理も知らず信仰もない場合です。この場合、まずこれまでに積み上げた罪の壁を壊さなければなりません。悪霊につかれた本人に意識がなくて悔い改められないなら、家族でも代わりに信仰で神の憐れみを求めていかなければなりません。最善を尽くしてみことばを糧とし、光の中にとどまろうと努力して祈れば、結局はその家庭から暗やみが退いて、悪霊も退くのです。
また、もう一つの場合は、信仰があるという人が神様にあまりにも申し訳ないことをした時です。代表的な例がひどく神様に立ち向かって赦されない罪を犯した場合です(第一ヨハネ5:16)。「赦されない罪」すなわち、死に至る罪とは、聖霊を冒涜し、けがし、逆らうことや、真理を知りながらことさらに罪を犯す場合、神のみことばと力を体験しても、再び堕落して、主を十字架にかけて恥辱を与える場合などです。たとえば、神様を信じているという人が聖霊の働きとして現れている不思議としるしを見ても、「サタンのしわざだ、異端だ」と罪に定めたり、冒涜して立ち向かっていくのです。このような場合、結局、神様が御顔を背けられるので、災いにあったり悪霊につかれたりします。
また、信仰があっても明白な肉の行ないを続けたり、世に落ちてしまったりする場合もそうです。このような時は、いくら神の力を受けた人が祈っても、まず罪の壁を壊さなくては問題が解決されません。こういう例外的な場合でないなら、神の力を受けた人がイエス・キリストの御名によって命じると、悪霊が恐れて退くようになります。

2) 新しいことばを語り <コリント人への手紙第一14:15>に「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。」とあります。「知性において祈る」とは、日常の言葉で自ら心の願いを求めることであり、「霊において祈る」とは、異言の祈りのことを言います。
異言は、聖霊に満たされて祈っているとき、上から賜物として与えられます。異言で祈ると、その祈りの内容が肉では悟れなくて、敵である悪魔・サタンもわかりません。ただし、祈る人が御霊に感じれば、ある程度その内容を悟ることもできるし、異言を解き明かす賜物を受ければ、その内容がわかります。
いろいろな御霊の賜物の中でも、異言の賜物は神様がすべての聖徒に与えたいと願われる賜物です。たとえば、預言の賜物や異言の解き明かしの賜物などは、初心の者に下さる賜物ではありません。信仰のない人がこのような賜物を受ければ、かえって高ぶってしまい、誤って用いて霊的に害になることもあるからです。
しかし、異言は誰にとっても益になります。異言を受ければ、それだけ祈りの力が加わるので、初心の者にもどうしても必要な賜物です。聖霊に満たされて異言の祈りを十分すれば、御霊に感じているうちに異言の賛美が出てきます。さらに深い感動が臨めば、いくら歌が上手でなくて、からだの硬い人でも、とても美しく賛美して踊れます。
ここからさらに深い段階に入れば、新しいことばが出てきます。信仰の五段階では、異言の祈りを始めるとすぐ新しいことばで祈れます。新しいことばは力ある異言ですから、これで祈ると敵である悪魔が恐ろしくて震えて退きます。たとえば、強盗が刃物で刺そうとする時でも、新しいことばで祈ればその場から闇が退きます。人が悪を行なうのは敵である悪魔・サタンに操られて行なうからです。しかし、闇の働きがなくなると、強盗の心が突然変わって逃げたり、その場でからだが固まってしまったりします。ですから、新しいことばでいつも祈れる人ならば、家庭、職場、事業の場、どこででも敵である悪魔・サタンに妨げられないで、神様がすべてを働かせて益としてくださって栄えるのです。
次回は、信仰の五段階の人々に伴うしるしの続きを語ります。


 

 

 
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