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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(24)

万民ニュース   第 93 号
6186
2010. 07. 25


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)
「しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」(民数記12:7)


信仰の五段階は第一に、神のみこころに完全に聞き従い、いのちまでささげられる信仰であり、第二に、数え切れない祈りを積んでしるしと不思議を行なう段階と言いました。今回は前回に続き、信仰の五段階の特徴の第三、「全家を通じて忠実である」について伝えます。

1. 全家を通じて忠実であるには

神様が言われる「忠実」とは、自分に任せられたこと以上をやり遂げることです。たとえば、ある人に給料をあげて仕事を任せたとき、それだけをよくやったからといって「忠実だ」と言いません。代価を受け取った分、当然すべき事をしただけです。しかし、給料をもらって働く人でも、「任されたこと以上をしなければならない」と思って、自分の時間と物質と身を惜しまずに仕事をしていく時は「忠実だ」と言えます。
歴史的にも、禄を受けるか受けないか、それが多いか少ないか、そんなことは意に介さずに、自分の果たすべき事をあふれるように果たした場合に、忠臣だと認められました。たとえば、韓国のイ・スンシン将軍は、謀略にかかって牢に閉じ込められた時も王を恨まなかったし、官職をすべて奪われたまま戦場に出て行くようになった時も、何の不満も持たずに命を尽くして戦ったし、ついには激しい闘いの中で戦死するまで、誠実と献身は変わることがありませんでした。世でもこういう人々を「忠実な人」と言うのです。
したがって、私たちも「忠実であった」とほめられるためには、自分に任せられた使命以上を果たすことによって、神の国にとって益にならなければならないのです。信仰の四段階に入った人は、霊的に誠実であると認められます。聖められて信仰の四段階に入った人には、御霊の実が結ばれているので、「誠実」の実も当然結ばれているのです。この誠実の実が「全家を通じて忠実」にまでなるためには、信仰の五段階に入って、すべての御霊の実が100パーセント結ばれていなければなりません。
たとえば、「誠実」が「全家を通じて忠実」という実を結ぶまでは、必ず相手の益のために自分を犠牲にして献身する過程が必要です。霊の「愛」なしには、犠牲になって献身することができません。また、「自制」の実が欠けているなら、いくら誠実であったとしても、他の面ではちょっとおろそかになることもあります。「平安」の実が完全に結ばれていなければ、事を進めていく過程でぶつかって、周りの人の心を傷つけることもあります。このように平和が破られたまま誠実に働いても、神の御前に全き報いとして積まれないのです。ですから、霊的に誠実であるものの、さらに全家を通じて忠実であるためには、誠実の実だけ優れていればよいのではなく、いろいろな御霊の実がすべて結ばれていなければなりません。

2.全家を通じて忠実であるという意味

「全家を通じて忠実である」とは「自分に与えられたすべての使命を完全に果たすものの、任された職務と与えられた代価以上をあらゆる分野で十分に果たすこと」です。信仰生活をしてみると、主にあっていろいろな使命を任されるようになります。その使命を誠実に果たしますが、任されたあらゆる分野に心を尽くして果たすことが、まさに全家を通じて忠実であることです。
いろいろな使命の中には、重要だと思われて人に認められる使命もあり、あまり重要でないと見られたり、人に認められないように見える使命もあります。しかし、全く聖なるものとされた人は、人が見て大きい事でも小さい事でも、神様が下さったすべての使命を尊く思うので、同じように心と思いと最善を尽くして果たします。
ところが、全家を通じて忠実であることはたやすくありません。ある場合は、使命が三つ、四つだけでもよく果たすために努力しますが、使命が多くてあまりにも忙しいと、すべての分野に気を遣えない場合もあります。ある使命は大きくて急いで果たさなければなりませんが、ある使命は緊急ではないために後回しにするならば、結局おろそかにする場合もあります。しかし、全く聖なるものとされた人は、いくら多くの使命を持っていても、十分にあらゆる分野で忠実であり、実を結ぶことができます。それは、完全な神様の心に似せられて、キリストの心を持っているからです。霊である神様の心は無限の空間であり、いくら多くのことでも十分にいだくことがおできになります。人類の歴史のすべての過程も、数えきれない人々の人生も、神様はまるで手の平を見ているかのように心にすべて入れて、つかさどっていかれるのです。
信仰の五段階、全く聖なるものとされた人は、もちろん神様と同じ水準ではありませんが、霊である神様の属性に似せられて、いくら多くの魂でも、いくら多くの事でも、十分に心にいだけます。また、神の国のために、そして神様がゆだねてくださった魂のために、自分のいのちまで与えられる愛があります。その切なる愛をもって心にいだいて祈り求めるので、自分が任されたあらゆる分野で神様のみわざが引き下ろせるのです。
もちろん、あらゆる分野を同じように心にいだいて、尊く思って最善を尽くすことが、すべての使命に同じ時間を割いて、同じように緊急に思うという意味ではありません。明らかに緊急な事があって、後でする事があり、相対的に多くの時間を使わなければならない事があります。しかし、全家を通じて忠実である人は、数多くの使命のうち、どんな使命も軽く思わなくて、聖徒がどんなに多くても、だれひとりおろそかに対さないという意味です。時間を少なく使おうが多く使おうが、どんな分野でも、心構えそのものが誠意と誠実を尽くして果たすようになるのです。

3. 全家を通じて忠実である秘訣は、心でいだき、実を結ぶこと

使徒パウロは多くの教会を開拓して巡りながら、数多くの魂をいつも心にいだいて、父なる神様の前に祈りました。[コロサイ人への手紙1:9前半節]に「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。」とあり、[テサロニケ人への手紙第一1:2]には「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、」とあります。その他にも、数多くの教会といつも共にはできないけれど、彼らのためにいつも祈っていることが聖書のあちこちに記されています。
エジプトから出た当時、二百万人もの民にモーセがいちいち会って、彼らの問題を解決することはできませんでした。しかし、モーセはすべての民を心にいだいていて、自分のいのちまで渡せる愛をもって顧みました。ですから、神様はモーセについて「彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」と言われたのです。
皆さんも同じです。御霊の歩みに入った分、多くをいだくことができます。その時は、いくら多くの使命でも十分に果たせます。たとえば、皆さんにゆだねられた聖徒が五百人ならば、すべてを毎週訪問できません。信仰が弱い聖徒や、緊急な問題がある聖徒はしょっちゅう顧みるようになりますが、1年に1、2回訪問する聖徒もいます。
しかし、本当に全家を通じて忠実であろうとするならば、しょっちゅう会おうが会うまいが、すべての聖徒をいつも心にいだいているのです。訪問礼拝を何月間に一回もささげられない聖徒であっても、心にはいつもいだているなら、神様が働いてくださるのです。それで、どうしても必要な時は、心に働きかけて、特別に祈ったり訪問するようにされたりして、たった一回、短い時間会っても、良い実に変えられるようになるのです。
これは、自分が怠けて訪問しないでいて、「その代わり祈っているから」と言い訳する姿とは全く違います。いのちを尽くして使命を果たそうと努力するけれど、「私が直接顧みられない分野までも、父が顧みてください」と祈る心が、どれほどもどかしくて切ないでしょうか? そのような心の香を受けられるので、神様がご自身で働いてくださるのです。
聖徒を顧みることだけでなく、他のすべての使命でも同じです。あらゆる分野に同じ時間と努力を傾けなければならないのでなく、あらゆる分野に心と思いと最善を尽くして、心にいだき、実を結ぶことが、まさに全家を通じて忠実である秘訣です。
ところが、ある人は「多くの使命を任せられれば、全部よく果たせないだろうから、いっそ一つ、二つだけ引き受けて最善を尽くしたら、全家を通じて忠実ではないだろうか」と言う人もいます。しかし、まことに忠実な人ならば、神の国のためにもっと多くの働きをしようと、使命を求める心が熱いのです。死にかけている魂のために献身しようとする心が熱いから、何としてでも使命を求めるようになります。ですから、自分がよくやれそうな一つ、二つだけ果たそうということ自体が、すでに全家を通じて忠実であることとはほど遠いのです。
また、皆さんが必ず覚えるべきことは、神の全家を通じて忠実である人は、私的な面でも誠実に行ない、実を結んで栄光を帰すようになるということです。もしある人が教会では熱心なのに、家庭は全く顧みなかったり、学校や職場では不誠実な人だと思われたりしているなら、「あの人は本当に忠実な働き人だ」とほめられるでしょうか?
忠実な人は心そのものがすでに誠実で真実なので、神の国だけに忠実であるのではなく、あらゆるところで誠実に行なうようになります。だからといって、必ず一位になるべきで、実績が一番良くなければならないのでなく、少なくとも誠実にすべき事を果たす人だと認められなければならないということです。
もちろん、事の後先を決めるべき時は、確かに神様が下さった務めと使命のほうが大切であり、もっと多くの魂を救うことが先です。しかし、だからといって、神の働きだけ熱心にして、他のところでは不誠実な姿を見せたら、この時は神の御前でも本当に忠実な心で使命を果たしているというよりは、肉的な忠実であったり、一時的な熱さで熱心であったりになりがちなのです。
 次回は、信仰の五段階の人々が体験する無限の霊の世界について伝えます。


 

 

 
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