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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

信仰の量り(25)

万民ニュース   第 94 号
6322
2010. 08. 22


「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3)

1. 信仰の五段階に入ると広い霊の世界に入門したこと

信仰の五段階の特徴は、父なる神様の心にぴったり似せられて、そのみこころと御旨を推し量ることができ、それに合わせてすべてのことに完全に従うので、父に喜ばれる信仰です。それなら、信仰の五段階に入れば神様の心にぴったり似せられた御霊の心になったので、それからは耕作を受けなくてもかまわないでしょうか? そうではありません。霊である神様の属性が無限のように、霊の世界は限りがないので、霊の世界にさらに深く入る過程も終わりがないのです。
小学校、中学校、高等学校を経て大学に、さらに大学院に入ったとしても、それで学びが終わったとは言えないでしょう。ある分野だけを一生研究しても、学問には終わりがないのです。霊の世界はもっとそうです。数多くの訓練を通り抜けて、信仰の五段階に入ったとしても、これは無限の霊の世界に入るための入門にすぎないのです。信仰の一段階から四段階までは、それぞれの段階の中でも「二段階の50パーセント程度、あるいは三段階の80パーセント程度にはなっている」、このように推し量ることはできます。
しかし、五段階ではこのように表現できません。霊である神様に限界がないように、御霊の歩みに入るのも、深く入るほどさらに深い次元が果てしなく繰り広げられるからです。ただし、説明するために便宜上、聖書の昔の信仰の人々のうち一番大きい信仰を持っていた人々を「五段階でも最高の次元に至った」と表現することはできます。すなわち、エリヤやモーセ、アブラハムのように、神様に完全に似せられて、神様に喜ばれて明らかに交わることができた人々のことです。

2. 深い霊の世界の奥義を悟る信仰の五段階

このように信仰の五段階に入っても、最高の次元に至るまでは神様ご自身が導き、霊の知識を満たしていかれます。この時の知識はこの地上に属する人としては聞くこともできなくて、聞いても悟れない深いものであり、天国の新しいエルサレムに入った時に学ぶ父なる神様の奥義なのです。信仰の五段階に入れば、たとえからだは肉の世界で生きていても、霊の世界に属する人になります。したがって、天国で学んで悟れることをこの地上でも悟っていけるのです。こういう隠された知識を悟りながら、だんだん父について明らかに知って、父に似せられた御霊の心に変えられるほど、五段階でも最高の次元まで至ることができるのです。
このように最高の信仰に至ると、その人の生まれつきの気質がみな長所に変わります。たとえば、非常におとなしくて弱い性分の人でも、強くて雄々しくなります。そして、誰よりもやわらかくて愛らしい性分に変えられるのです。
とても意志が強くて鋭い性分の人も、綿毛のように柔和な心で満たされるし、冷たく見えることもある本来のまっすぐな気質は、きよくて変わらない心に昇華されて、この上なく清らかな香を放つようになります。性分は様々でも、皆が完全に主に似せられた人が集まる所が、まさに天国の新しいエルサレムなのです。

3. 人の限界を超える驚くべきわざを体験する

神様と主にぴったり似せられて一つになった人は、人の限界を超える驚くべき霊の世界のわざも体験するようになります。聖書に記されているように、雨とひょう、太陽と月などの天気を動かしたり、死んだ者を生き返らせたり、病気とわずらいをいやしたりします。人としてはとうてい不可能なことが、神様に似せられた分、神様の力が臨んだ分、十分に現れるのです。そのうち一番驚くことは、人として死を見ないで昇天することです。[ヘブル11:5]に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」とあります。また、[第二列王記2:11]には「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」とあります。その他に、モーセも御使いのかしらミカエルがモーセのからだについて悪魔と論じ、言い争ったという[ユダ1:9]の記述と、[申命記34:6]に「今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」という記述などを見ると、彼の臨終が普通の人とは違うことがわかります。
聖書には確かに「人間には、一度死ぬことが定まっているように、」とあるのに、人として死を見ないことがどうして可能でしょうか? 信仰の五段階で神様と完全に一つになれば、十分こういうことも起きるのです。[詩篇82:6]に「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。』」とあり、[ヨハネの福音書10:35]に「もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」とあります。このように神の律法をいただいて、戒めを完全に守った人々は、神様と一つ、主と一つになるので、肉の世界の公義を超えて、霊の世界の公義が適用されます。ですから、肉に属する人が見る時はまるで神のように見えるほど驚くべきことが現せるし、肉の死でさえ避けていくのです。
[ローマ6:23]に「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。霊の世界の法によると、死は罪がある人にだけ臨みます。しかし、主を信じる人は信仰によって罪が赦されるので、肉体は死を迎えても、終わりの時はよみがえって朽ちないからだを持つようになります。
ところが、信仰の五段階に深く入り、肉の痕跡まで完全になくなって神様のご性質にあずかるようになると、このような肉体の死さえ見ない資格を備えるのです。すなわち、エリヤやエノクのような方は神様をこの上なく愛して、心の罪を捨てて、根に残っている肉の痕跡さえ捨てました。そして、真理で心がぎっしり満たされて、神様にこの上なく似せられた人人です。また、旧約時代の人々ですが、神様と明らかに交わり、やがて来られるイエス・キリストを信じて望んだので、過去のすべての罪と原罪までも赦されました。ですから、「罪がない」と認められて、肉の死さえ見ないこともできたのです。
もちろん、誰でも信仰の五段階の深い次元に入れば、死なないで天に移されるということではありません。たとえ資格を十分に備えていても、人間耕作という摂理にあって肉の世界で生まれたので、神様はほとんどこの地上の秩序に従って、肉の死を迎えるようにされます。また、使徒パウロやペテロのように、全く聖なる者とされた後でも殉教して、むしろもっと輝く報いを受けるようにされ、その血の代価によって神の国が盛んになる礎石とされることもあります。エノクやエリヤのような場合は、神様が特別な摂理をもって天に移されるようにされ、また、聖書に記して、後世の聖徒にそのようなことが可能だと悟って慕うようにされたのです。

4.決して神様と同等にはなれない霊の世界

もう一つ覚えておくことは、信仰の五段階に至った人が満ち満ちたキリストの身たけに達したといっても、また、肉体の死を見ないほどであっても、決して神様、キリストと同等にはなれないということです。被造物である人として創造主の神と主に非常に似せられたとはいえ、完全に等しいとは言えないのです。
また、霊的な弟子と師の関係でも、弟子が師を超えることはできません。[マタイの福音書10:24-25前半節]には「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」とあります。世では弟子が師にまさることもありますが、霊的にはそうできません。霊の世界は果てしなく、あまりにも深い世界であり、肉の人としてはとうていわかりません。ですから、自分が直接その次元に入って悟る前は、その世界を説明することも、教えることもできません。知識的に聞いたことを教えるとはいっても、自分も知らないことを語っているので、まるで目の見えない人が目の見えない人を手引きするようなものです。
それで、[第一コリント4:15]に「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」とあり、知識的に教える養育係と、御霊によって導いていのちを生む父を分けて説明しているのです。

5.数え切れない祈りと断食を積んで

霊の世界の奥義は神様ご自身が悟らせてくださらなければなりません。そのためには数え切れない祈りと断食を積まなければなりません。このように、霊の世界を突き抜けていって神様と交わり、そのみこころと御旨を明らかに悟った人だけが、十分に他の人を霊の世界に導くことができ、他の人も霊の世界を悟るように教えるまことの師になれるのです。
弟子として師の道をたどって行くことは、自分が直接霊の世界を突き抜けていくよりやさしいです。しかし、これは師の限界の中で進むことなので、自分で霊の世界の道を突き抜けていった師を超えることはできないということです。たとえば、モーセは直接神様から教えられたので、モーセから学んだヨシュアはモーセより霊的にもっと深く入ることはできませんでした。私が神様を見つけてから、神様と明らかに交わってそのみこころと御旨がわかるまでは、数え切れない祈りと断食、そして徹夜祈祷で歳月を過ごしました。その中で自分が体験しただけに霊の世界と信仰の次元を確かに証しすることができ、皆さんにもこのような深い世界へ入ってくるように提示することができるのです。
仮に皆さんの信仰が四段階程度なら、信仰の三段階やそれよりもっと信仰が少ない魂は顧みて、教えることができます。しかし、それ以上深い霊の世界には導けないのです。皆さんがゆだねられた聖徒を顧みる時も、「私の聖徒」とこだわらず、牧者とつなごうとするのも、まさにこういう理由からです。すなわち、聖徒が皆さん自身の限界よりさらに深い霊の世界を突き抜けて行けるように、師に導かれるようにしようとするからです。次回は「信仰の量り」最後のメッセージです。


 

 

 
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