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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

答えの神

万民ニュース   第 114 号
4876
2012. 04. 22


「…しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。それで人々は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた。…そこで彼らは食べ、十分に満ち足りた。こうして彼らの欲望を、かなえてくださった。」(詩篇78:12-29)


神は愛する子どもたちを炎のような御目で守られて、求めるものは何でも答えてくださいます。[マタイ7:7]に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とあります。ですが、求めるからといって、何が何でも答えられるのではなく、神の子どもとしてただ神のみこころのとおり求めて、みことばどおり完全に従う時でこそ答えられます。


1. 御手を差し伸べて答えられる神

イスラエルの民は神が選ばれた民族です。彼らは神の摂理にあってエジプトで四百年間、奴隷として過ごさなければなりませんでした。エジプトの人々がどれほど虐待して労役させたのか、彼らの労役の叫びがついに神に届きました(出エジプト2:23)。神はモーセを指導者として彼らをエジプトから連れ出し、乳と蜜の流れるカナンの地へ導かれます。
エジプトから出る過程で、神はイスラエルの民の目の前で、さまざまな不思議としるしを施してくださいました。昼は雲の柱、夜は火の柱で導き、岩から水を出して飲ませ、食べる物がない時は、天の戸を開き「マナ」という天の糧を彼らに与えられました。
イスラエルの民がエジプトから出て、カナンの地へ行く旅程は、私たちの信仰生活とも密接な関係があります。それは、私たちがこの世の罪の中を歩んでいた生き方から抜け出て天国に入るまでの、この地上での信仰生活を意味しています。
神は、私たちが荒野のようなこの世で勝利して、よりすばらしい天国を攻めて入ることを願っておられます。それで、イスラエルの民に働かれたように、私たちの人生の中で御手を差し伸べてその道を導いてくださいます。私たちが適当に信仰生活をして安住するのではなく、熱心に求めて、捜して、たたく、賢くてまめな子どもになることを願われるのです。それでこそ神が与えられる豊かな祝福をいただくことができるからです。
どこの親が子どもたちが貧しくて、病気がちで、苦しむことを願うでしょうか。悪い親であっても、自分の子に良いものを与えたいと思います。神は親よりもっと私たちに良いものを与えることを願っておられます。それで、聖書のあちこちに「求める者に答える」と約束されたのです。
[ヨハネ15:16]には「…わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。しかし、誰にでも祝福して問題を解決してくださるのではありません。神は必ず答えられるほどの心や行いがあったとき、働いてくださいます。
聖書には、神に喜ばれて多くの答えと祝福をいただいた昔の信仰の人々が出てきます。彼らの信仰によって皆さん自身を詳しく照らしてみますように。


2. 神の答えはどんな人に臨むのか

1)どんな状況でも移り変わることのない信仰を所有した人
アブラハムは、神が死んだ者もよみがえらせることのできる全知全能の方だということを信じたので、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよという命令にも従いました。このような信仰があったので、神はアブラハムを信仰の父とされ、子ども、健康、富と名誉など、すべての祝福をお与えになりました。ところが、多くの人が自分の思いに合わなかったり、自分にとって損になりそうだったら、疑って聞き従わないのです。自分の思いどおりにならなければ、恨んでつぶやき、すぐに気を落として絶望してしまいます。これは神を完全に信じられないからです。
[民数記23:19]に「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあります。アブラハムのように、どんな状況に置かれても移り変わることのない信仰を所有すれば、神に答えられます。

2)切なる心で火のように祈る人
預言者エリヤは、答えられるために地にひざまずいて、自分の顔をひざの間にうずめるほど祈りました(第一列王18:42)。そのような切なる祈りを通して、三年半の間一滴の雨も降らなかった地に、大雨が降りました。

3)神を恐れかしこみ、施しをなし、いつも祈りをしている人
コルネリオは異邦人だったが、敬虔な人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたので、神は彼のことを覚えて御手を差し伸べてくださいました。使徒ペテロをコネルリオの家に遣わして、彼とともにいた親族や親しい友人たちまでも、みな聖霊を受けて救われるように祝福されたのです(使徒10章)。

4)大胆に信仰によって進む人
ダビデは四十日間、神とイスラエルをなぶったペリシテ人の代表戦士ゴリヤテを、石投げと一つの石で一気に倒しました(第一サムエル17:32-49)。それを見てペリシテ軍は逃げ、イスラエルは大勝利をおさめることができました。いっかいの羊飼いにすぎなかったダビデでしたが、神を信頼する信仰があったので、巨人ゴリヤテの前で恐れず大胆に進みました。
ひょっとして皆さんの前に山のような大きい問題があるでしょうか? とうてい不可能なことがあるでしょうか? ダビデのように神を信頼して、大胆に信仰によって進んでいきますように。


3. 神をすみやかに見つける人々の心

マリヤはヨセフの妻と決まっていました。ところが、ある日、マリヤが身重になったことがわかりました。ヨセフにとって、自分とはまだいっしょにならなかったのに身重になったとは、青天の霹靂(へきれき)のような出来事でした。律法によると、姦淫した女は石で打ち殺すことになっていました。しかし、ヨセフは愛する人がひどい目に遭うことを願わなかったのです。それで、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めました。
ヨセフはこのような優しくて正しい心があったので、主の使いから「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」という言葉を聞くことができました(マタイ1:20)。
[ルカ1章]に書いてあるエリサベツやザカリヤも同じです。[ルカ1:6]を見ると「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。」とあります。神の御前に罪を犯さないで、みことばどおり聞き従って、神に喜ばれていました。ところが、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていました。神は彼らに大きなプレゼントを下さいます。バプテスマのヨハネを子として与えてくださったのです。
[第一サムエル1章]には、子どもが産めなくて苦しんでいるハンナという女が出てきます。彼女は神に切に祈り、男の子を授けてくだされば、その子を神におささげしますと誓ったのです。願いがかなえられてサムエルを産んだハンナは、その子が乳離れすると、祭司長エリのところに連れて行き、神のしもべとしてささげました。
普通の人なら、やっと得た子どもなので、神に約束したことを破ったかもしれません。しかし、ハンナは誓願を完全に守りました。その後、神はハンナに三人の息子と二人の娘を下さり、サムエルはイスラエルの大預言者になりました。

愛する聖徒の皆さん、このようにすばらしい神、おできにならないことのない神を見つけさえすれば、すべての問題が解決されて、心の願いに答えられます。したがって、神を恐れかしこみ、善を行って、移り変わることのない信仰を所有し、求めるものは何でも神からいただくことができますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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