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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

肉の愛と霊の愛

万民ニュース   第 119 号
5129
2012. 09. 23


「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(第一ヨハネ4:7-8)


「愛」という単語は、聞くだけでも私たちを幸せにして胸をときめかせます。誰かを愛して、生きている間、変わらず愛を分かち合うことができるなら、それよりすばらしい幸せはないでしょう。時々、愛の力によって死に勝ち抜いて環境を変え、人生を美しく作り上げた人々がいます。愛は幸せの必須要件であり、愛には人生を変えさせる偉大な力があるからです。


1. 肉の愛とは?

自分によくしてくれて、利益になる人を愛することは、神様を知らない人や悪い人にもできます。うわべではもっともらしいけれど、実はまことでない、偽りの愛をするのです。これは、時間が流れれば変わってしまい、ささいなことでも簡単に壊れてしまう、肉の愛と言えます。
肉の愛は、歳月が流れて状況と条件が違ってくると、変わります。自分の利益に従ってああしたりこうしたり、簡単に変わるのです。相手からまずもらってこそ与えて、自分に利益になってこそ施します。このように、自分が与えただけ相手からもらいたがって、相手がくれないならむなしくなって惜しくなるのは、すべて肉の愛です。
親が最善を尽くして子どもの世話しながらも、自分の利益と栄光のために育てることがどれほど多いでしょうか。「全部あんたのためにこうしてるのよ」と言うけれど、自分の心を満足させたり、自慢しようとする心があるのです。子どもが進路や配偶者を選択する時も、親の意向と違ったら反対して、むなしく思います。結局、子どものための献身と犠牲が、代価を期待する条件つきの愛だったことを物語っているのです。
子どもが親を愛する心はどうでしょうか? 長患いをすれば孝行息子はいなくなるという言葉のように、親が老いて病気にかかれば、無視して面倒くさがります。忙しいという言い訳で、離れている両親に安否の電話一本もなかなかかけません。自分の子ども、自分の生活が中心で、ますます親には無関心になります。しかも財産やお金を要求して、断られるなら憎んで、ひどい場合は親を殺害するという、人の道から離れてしまった子どももいます。
友だちとの愛はどうでしょうか? 固く信じていた友だちの裏切りでひどく傷ついたりもします。ある場合には、急にお金が必要だと、友だちに大金を貸してくれるよう頼んだり、保証人になってくれと言います。友だちが断ると裏切られたと感じて、仲が疎遠になります。まことに愛するなら、相手を苦しめません。このように肉の愛は自分の実利を計算して、利益がなければ遠ざけてしまうのです。


2. 霊の愛とは?

辞書で「愛」という単語を調べてみると、「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。」と定義しています。しかし、神様が言われる愛は、さらに次元の高い霊の愛のことです。つまり、相手の利益を求めて、喜びと希望といのちを与えるだけでなく、永遠に変わることのない愛なのです。
聖書に出てくるダビデとヨナタンは、霊の愛を分かち合いました。ヨナタンはイスラエル王サウルの息子です。彼はダビデが石投げでペリシテの敵将ゴリヤテを倒すのを見て、神の霊が臨んだ勇士であることがわかりました。自分も軍隊を率いる将軍だったので、彼の勇猛さに憧れ、心が熱くなりました。その時からヨナタンはダビデを自分と同じほどに大切にして愛しました。ダビデにはどんなものを渡しても、惜しくなかったのです。
<第一サムエル18:1-4>を見ると「……ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。……ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」とあります。
ヨナタンはサウルの長男で、王位を受け継げる後継者でしたが、彼には私心や欲がなかったので、王という位に執着しませんでした。むしろサウルが王位を守るためにダビデを殺そうと血眼になったとき、いのちの危険を押してダビデを助けました。このような愛が死ぬ時まで移り変わらなかったのです。
ヨナタンがギルボアの戦闘で戦死すると、ダビデは飲食をやめて、ヨナタンの死を悲しみました。王になったダビデはヨナタンの子メフィボシェテを捜して、サウルの財産をみな返し、王宮で自分の息子のように面倒をみました。
このように霊の愛は、たとえ自分にとって益にならず、害になっても、いのちが尽きるまで変わらない心で愛することです。何かの代価を願ったり、自分によくしてくれるから愛するのではありません。何の条件もなく、純粋に自分を犠牲にして、相手のために変わらず与えられる愛なのです。


3. 私たちに向けられた神様と主の変わらない愛

ひょっとして皆さんは霊の愛と反対である肉の愛のゆえ、心の苦しみを味わったことがあるでしょうか? 簡単に変わってしまう愛に心を痛めて、むなしくなるとき、私たちを慰めて友になってくださる方がおられます。まさに主イエス様であります。
主は何の罪も咎もなかったのに、人々に顔を背けられてさげすまれたので、誰より私たちの心をよく知っておられます。天の栄光を後にしてこの地上に来られ、苦しみの道を歩まれ、私たちのまことの慰め主になられました。そして、十字架で死なれるまで、私たちにまことの愛を下さいました。
私は神様を受け入れる前、あらゆる病気で苦しみながら貧しい暮らしをしていました。7年間の闘病生活のあげく、残ったのは病身と雪だるまのように増える借金だけでした。信じて愛していた人たちがひとり、ふたりと、私のそばから離れて行きました。徹底的に捨てられて顔を背けられ、さげすまれる人生でした。ひと筋の希望さえなく、死の直前でさ迷っていたとき、神様は私に御手を差し伸べてくださいました。
神様を見つけてすべての病気がいやされ、新しいいのちを得て、新しい人生を歩むようになりました。神様が下さった愛は価のない愛でした。私がまず愛したのではありません。神様のほうがまず先に御手を差し伸べてくださったのです。
<イザヤ49:15-16>には、私たちに向けられた神様の愛がよく表れています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」と神様は言われています。
みんな離れてしまったと苦しみもがいていたその瞬間も、私を見捨てられなかった神様。その愛を悟ったとき、とめどなく涙が流れました。苦しみの歳月があったので、神様の愛がまことであることを深く感じられたし、今は多くの人の心を慰めていだける主のしもべになって、その恵みに報いようと忠実に仕えて走っています。
神様は愛そのものであられます。罪人である私たちのために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。そして、あらゆる美しく尊いもので天国の場所を備えて、一日を千年のように私たちを待っておられます。ほんの少し心を開いても、神様の細やかで豊かな愛を感じることができます。

愛する聖徒の皆さん、
愛は、自分の利益を求めて移り変わる肉の愛と、相手の利益を求めて真理を喜ぶ霊の愛とに分けられます。神様の愛は肉の愛でなく霊の愛であることを悟り、永遠に神様と移り変わることのない愛を分かち合いますよう、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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