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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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いのちのみことば - 愛は寛容であり

万民ニュース   第 121 号
5191
2012. 11. 25


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)



堂会長イ・ジェロク牧師



性格がせっかちな人は我慢しきれなくて、よく失敗します。信仰生活をしながらも、待てなくてあせる人々がいます。たとえば、みことばに背く罪と悪を捨てるために断食しながら切に祈ったのに、自分が願うほど変えられなければ、すぐ気を落とします。また、祈りに答えられるために心を込めて献金して祈ったのに、何のみわざも現れなければ、不安になって疲れてしまったりします。

このように祈りの答えはもちろん、コリント人への手紙第一13章に記されている霊の愛を実践することにおいては、寛容であってこそ美しい実を結べるのです。


1. 愛は寛容であるとは?

<第一コリント13:4>以下に、霊の愛を実践するのに必要な15の項目が記されています。そのうちに一番先に出てくるのが「愛は寛容であり」です。それなら、これに込められた神様のみこころは何でしょうか? それは、愛することにおいてあうようになるいろいろな試練と「自分自身」に対して寛容を尽くしなさいということです。

たとえば、自分は何の過ちもないのに、誰かがそねんでねたんで嫌うとしましょう。こんな人が周りにいるならば、避けたくて、偶然にでも会いたくないでしょう。それで「どうやってその人を愛せるだろうか」と心配になります。しかし、霊の愛をしようとするなら、このような人までも寛容を尽くして愛さなければなりません。相手が訳もなく自分をけなして嫌っても、心を治めて、寛容を尽くして愛するべきです。このように、みことばに聞き従って愛そうとする時にあうようになる、すべての困難に対して寛容を尽くして耐えることが、霊の愛の第一の項目なのです。

ところで、愛の章の「寛容」は、御霊の九つの実の「寛容」に比べれば、小さい範疇に属します。御霊の実の「寛容」が神の国の義のためにすべてのことに寛容を尽くすことに対して、愛の章の「寛容」は相手を愛するための個人的な次元だからです。


2.「寛容」を尽くす愛の威力

<マタイ5:44>に「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵とは、怨みが凝り固まるほど害を及ぼした人です。罪人のためにこの地上に来られたイエス様は、敵をも愛して、迫害する人々のために祈られました。人の子らはただ良いわざだけを行われたイエス様をむしろあざけって蔑み、軽んじました。それでもイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と、とりなしの祈りをささげられました。

イエス様は神様と敵になった人の子らを寛容を尽くして愛されました。その結果、主を救い主と信じて受け入れる人は誰でも、敵である悪魔の奴隷から解放され、神の子どもになるという驚くべき救いのみわざが起きたのです。このように、寛容を尽くす愛の力は偉大です。

それなら、皆さんはどれほど寛容を示しているでしょうか? 訳もなく皆さんをけなして嫌う人でも、寛容をもって愛せるでしょうか? あるいは、敵でもない夫、妻、子ども、信仰の兄弟たちに「もう我慢できない」と言っていないでしょうか?

<マタイ5:39-40>に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」とあります。人の下着をくれと言うとは、どんなに恥知らずでしょうか。これは、愛に愛を加えなさいという意味なのです。

最近は、他人が自分の身辺や財産に少しでも害を及ぼせば、寛容でいられなくて、直ちに訴訟をしたりもします。相手が夫、妻、親、子どもだとしても、関係ありません。むしろ我慢してじっとしていれば、愚か者扱いされます。

それなら、私たちも世の人のように同じように仕返ししてやらなければならないでしょうか? そうではありません。寛容をもって善で対さなくてはなりません。あるいは「悔しくて、どうやってそうできるか」と反問する方がおられますか? 皆さんに信仰と愛があるならば、いくらでもできます。それは、ひとり子イエス様を殺した罪人のような私たちに、寛容を尽くして憐れみを施される父なる神様の愛と、そのような神様を信じる信仰があるがゆえにです。神様から私たちがこういう愛をいただいたことを信じるなら、いくら大きい害を及ぼす人でも赦せます。いのちも惜しまず渡してくださった主を愛するなら、愛せない人がいないのです。


3. 霊的な寛容を心に耕そうとするなら

ある人は憎しみ、憤り、わだかまりを無理にギュッと抑えておいて、自分の限界点に達すれば、爆発してしまいます。また、内気な性格のため表現できなくて、ストレス性の病気にまでかかる人もいます。

神様が願われる寛容とは、変わらず最後まで寛容を尽くすことです。つまり「示す」という言葉もいらない「寛容」そのものなのです。憎しみ、報われないむなしさなどを心に積んでおくのではなく、それらを起こさせる根本の悪を引き抜いて、いつくしみと愛に昇華させることが、霊的な意味の寛容です。

心に悪がなくて愛だけが満ちているなら、敵をも愛することが難しくありません。敵になることがなく、いくら受け入れられそうでもない人でも、かわいく見えるのです。過ちや短所があっても嫌うのではありません。自分を嫌って憎んでも憎らしくならないのです。

一方、心の中に憎しみ、争い、そねみ、ねたみなど真理に逆らうものがあれば、いくら良い人を見ても、自分の心に合わなければ短所が目について、嫌う心が先に出ます。また、自分が嘘をよくつくなら、相手がいくら真実を言っても嘘をついているように思うのです。

それなら、自分に悪を行う者にどれほど寛容を示さなければならないでしょうか? これについてペテロがイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と尋ねます。するとイエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われます(マタイ18:21-22)。

「七」は完全さを意味する数で、完全に赦しなさいという意味です。つまり、無限大の赦しと愛のことを言います。一日で嫌う心を愛に変えることはやさしくはありません。絶えず努力しなくてはなりません。真理に逆らう感情や憤りが出ても、それぞれの信仰の段階で捨てるために絶えず努力すれば、ますます真理に変えられて、霊の愛が育ちます。

心の奥深くに根を下ろした罪の性質は、聖霊に満たされて火のように祈る時に捨てられます。また、相手を愛の目で見て、善を行おうとする努力も伴わなければなりません。このように行っていけば、いつの間にか心から憎しみがなくなって、相手を愛せるようになります。誰とも引っかかることがなく、憎らしい人がいないので、まるで天国にいるように幸せなのです。すべての真理に逆らうものを捨てて、善と愛だけがぎっしり満ちているので、寛容を示す必要がなく、皆を愛することができます。

心に悪がなくて良い人であるほど、寛容を示すこともありません。寛容を示すとしても、無理にするのではなく、相手が変えられるまで待ってあげます。それなら、天国でも寛容が必要でしょうか? 天国には涙、悲しみ、苦しみ、悪がなく、ただ善と愛だけがあります。相手を嫌うこともなく、怒ったり癇癪を起こすこともありません。神様が「愛は寛容であり」と言われたのは、人のほうで理解できるようにこう表現されたのです。

愛する聖徒の皆さん、悪はどんな悪でも避けることによって、自分に対して寛容を尽くすことはもちろん、いくら悪い者であっても寛容に赦すことができますように、主の御名によって祝福して祈ります。



 

 

 
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