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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

いのちのみことば - 愛は親切です

万民ニュース   第 122 号
4989
2012. 12. 23


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)



堂会長イ・ジェロク牧師



心理学者ハロー教授が赤ちゃんザルたちの前に二つの母ザル人形を置いて、実験しました。一つの人形は針金で、もう一つは柔らかい布で作りました。そして、それぞれに哺乳びんを差しておきました。初日、赤ちゃんザルたちは二つの人形にあるミルクをどちらも飲みました。ところが、次の日からは針金で作った人形には一匹も行かなくて、柔らかくて温かい人形にだけ集まりました。
このように動物も、冷たくて堅いものよりは柔らかいものを好みます。万物の霊長と呼ばれる人も同じです。鋭くて冷たい人よりは温かい人を好み、そんな人のふところに宿って休みを得ようとします。



1. すべての人をいだく親切な心

霊的に「親切」とは、その人の身になってすべての人をいだける心、多くの人が宿って休める心のことを言います。理解しやすいように、綿を思い出してみてください。いくら固い物体がぶつかってきても、音がしません。かえってふんわり包んでしまいます。また、親切な心は多くの人が宿って休める大木のようなものです。暑い夏の日差しを避けて汗を引かせるために、人々は木陰に集まります。
世では、性分がおとなしくて怒らず、自己主張が強くない人を優しい人だと言います。しかし、人のほうで親切だと思うことと神様が認められる親切とは違います。いくらおとなしくて優しく見えても、神様が認められなければ、まことに親切だと言えません。たとえば、もともと性分が消極的でおとなしく、他の人の言うことをよく聞いているようでも、実は心では抑えて我慢するなら、このような人を優しくて親切だとは言えません。これは心の中から悪を捨てないで、我慢しているだけだからです。
まことに親切な人は心に悪がなくて賢いし、霊の愛をもって相手を受け入れます。かといって、間違いを犯したのに、何が何でも赦しておおってあげるという意味ではありません。時には正しく威厳をもって治めます。したがって、霊的な親切とは、内面にある親切の心とともに、外面的にも徳を兼ね備えた状態を言います。



2. 親切を心に耕した尺度は聖潔

霊的な親切を心に耕すためには、何より心の悪を捨てて聖められなければなりません。相手の身になってその人のために尽くす人は、綿毛のように、誰がぶつかってきても音がしないで、ふんわりと包んであげます。心に悪がないから、引っかかったりぶつかったりしないのです。
もし私たちの心に憎しみ、そねみ、ねたみ、自分の義と枠があれば、相手を包んであげられません。硬い石や鉄に物が落ちれば、壊れたり、音がしてはね飛ばされるように、自分というものが生きていれば、誰かがちょっといらだたせるようなことをしても、気を悪くします。相手の過ちをおおってあげるより、さばいて罪に定めて、ひそひそ話をします。心に真理に逆らうものが入っているので、真理の心をそれ以上大きくできないのです。こういう人は小人の心の人ですから、指摘されればかっと怒ります。誰かが内緒話をすれば、自分の悪口ではないかと、じろっとにらみます。
したがって、親切の基本条件は心に悪がないことです。神様は必ず聖められてこそ「親切だ」と認めてくださいます。心に悪がなくてこそ、相手を善と愛をもって見られるからです。親切な人は、すべてにおいて慈しみと憐れみの心で相手を見ます。さばいたり罪に定めようとしないで、善と愛をもって理解しようとするから、悪い人でもそのぬくもりに心が溶けます。さらに完全に聖められたなら、聖霊に正確に働きかけられて、相手の様子をよく見分けて、最も良い道に導けます。


3. 親切を完全にする徳

辞書を見れば、徳とは「精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。」と定義されています。霊的にも同じです。徳のある人はすぐれた品性をもって正しくて公正だし、人としての道に従って行います。相手を物理的な力で屈服させることもありません。正しい言葉と行いで相手の欠けているところを理解して、受け入れることによって、多くの人の心をつかむのです。ですから、人々に信頼されて愛されます。
親切を完全にする徳は、私たちが着る服のようなものです。いくら立派な人でも、汚らしくてみすぼらしい姿であれば、格が落ちるように見えます。このように、親切な心があっても、徳を兼ね備えていなければ、その真価を発揮できません。
たとえば、相手の身になっているつもりで話をしたら、いつも必要のない長話になります。こういう人は何かの悪意があるのではないけれど、教養が欠けているので、それだけ相手に信頼されません。また、心が優しくて、わだかまりを持ったり、相手に被害は与えたりすることはないけれど、他の人の働きを積極的に助けないで、細やかな配慮が足りません。これもやはり徳が欠けている姿です。
もしイエス様が弟子たちや周りの人たちとふざけて冗談を言って、服装が乱れていて、サンダルを引きずりながら歩かれたとすれば、どうでしょうか? 人々から尊敬されにくいでしょう。しかし、イエス様は外見に霊的な威厳と権威がにじみ出ていたので、弟子たちはもちろん、人々もあえて無作法に対することができなかったのです。<マタイ12:19>に「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」とあるとおりです。
花にいくら蜜が多くても、きれいな色があまり目立たないし、香りもしないならば、ハチやチョウが飛んできにくいでしょう。同じように、優しい人であっても、言葉と行いに徳がなければ、多くの人が宿れません。その親切の心が完全に輝くことができません。これとは反対に、言葉と行いに徳があるように見えても、親切の心がなければ、外面だけ装ったにすぎません。


4. 親切な人が受ける祝福

心が聖められて貧しくなり、へりくだってすべての人を柔らかく包んで、それに徳を兼ね備えるなら、どんな祝福が臨むでしょうか? <マタイ5:5>に「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」とあります。また、<詩篇37:11>には「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」とあります。ここで「地」とは、天国の場所を意味し、「地を受け継ぐ」とは、将来、天国で大きい権勢を受けるようになるという意味です。なぜそうでしょうか? このような心の人は、神の心をもって人々を力づけて恵みを及ぼすからです。親切であるほどさらに多くの魂が宿るので、彼らを救いに導けるのです。また、多くの人の身になれる者になったということは、それだけ低くなって人に仕えたという意味です。
天国の権勢は、このように仕える人に与えられます。<マタイ23:11>に「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」とあるように、仕えるほど偉大な者になります。このような人は将来、天国で大きい権勢を受けて、それだけ広くて大きい地を受け継ぎます。たましいに幸いを得ているので、すべての点で幸いを得る祝福を受けるだけでなく、天国でもとこしえに神様に愛されて、数えきれない魂にとって尊敬の対象になるのです。
愛する聖徒の皆さん、神様は罪と悪がない聖められた人を喜ばれます。したがって、すみやかに聖められて、親切の心に徳を兼ね備えて、この地上でも多くの人をいだいて、天国でも偉大な者になりますよう、主の御名によって祈ります。


 

 

 
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