Manmin News, Manmin, Manmin Central Church, drLee, jae-rock Lee
 
 

光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
New Update
光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「十字架の道」シリーズ(9) なぜ、イエス・キリストは私たちの救い主となられるのか?

万民ニュース   第 46 号
7408
2006. 11. 12


-救い主の資格条件(2)-

「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。」 (第一コリント2:6-7)


<目次>
「なぜ、イエス・キリストは私たちの救い主となられるのか?」
1.土地の買い戻しの法則
2.救い主の資格条件(1)
3.救い主の資格条件(2)

神様の愛を知らない人々は
イエス・キリストだけが救い主になられ
この御名のほかには救われないと言うと、
疑ったり、あまりにも独善的だと非難したりします。
ですから、なぜ、イエス・キリストだけが
唯一の救い主となられるのかをはっきり悟って、
すべての人々が救われるように
伝道に努めなければなりません。

前の号では、イスラエルの土地の買戻しの法則(レビ25:25)に基づいて、全人類の救い主になろうとするなら、まず人でなければならないこと、二番目にアダムの子孫であってはならないことを調べました。今回は、救い主が持つべき三番目と四番目の資格条件について調べてみます。

1.イエス様は「敵である悪魔に勝つ力を持たねばならない」という救い主の三番目の資格条件を備えておられます。

戦場から捕虜になった仲間を救い出そうとするなら、敵軍に勝つ力がなければならないように、敵である悪魔に属している人々を救い出そうとするなら、彼らを支配する霊的な力がなければなりません。
罪には原罪と自ら犯した罪があります。原罪とはアダムから伝わった罪の性質のことを言い、自ら犯した罪とは生きていきながら自分で犯した罪を意味します。
世の人々は、心がいくら悪くても行いとして罪を犯さなければ罪人と言いませんが、霊的には、心に罪をいだいていることだけでもすでに罪人なのです(第一ヨハネ3:15、マタイ5:28)。行いでも心でもただ一回でも罪を犯した人には、人類を救うことができる力がありません。ところが、アダム以後のすべての人は、原罪と自ら犯した罪を重ねながら生きています。
一方、イエス様は聖霊によって宿られ、アダムの子孫ではないので原罪がなく、生まれてから完全にみことばを守って行われたので、自ら犯した罪も全くおありになりません(ヘブル7:26、第一ペテロ2:22)。
したがって、イエス様は敵である悪魔・サタンから人類を救う力があって、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)という律法の呪いにも縛られません。
罪がなかったので、死の力を打ち破って罪人たちを救われ、霊的な権威で天下万物を治められました。敵である悪魔・サタンが屈服するだけでなく、病気はもちろん、見えない、話せない、歩けないなど、生まれながらのわずらいもイエス様に従ったのです。
このような霊の世界の法則は、イエス様だけでなく、イエス様を信じる神様の子どもたちにも該当します。誰でも神様を愛してみことばどおりに生きていく者には霊的な力があるので、イエス・キリストの御名で退ければ、敵である悪魔・サタンが聞き従って離れるのです。
私はこういうみわざを無数に体験しました。神様を信じる前には病気で治療費と薬代が果てしなくかかりましたが、主を受け入れた後はみことばの中にとどまって罪と関わらずに生きると、家族みなが病院に行かず、健康に暮らしています。
また、私がイエス・キリストの御名で命じて祈るとき、ガンや白血病、エイズなどのいろいろな病気がいやされて、見えない目が開かれ、耳が聞こえるようになるなど、体の不自由な人も健やかになり、一酸化炭素ガスが退き、悪い霊どもが離れるなど、驚くべきみわざがいつも現れて神様に栄光を返しています。
人類の歴史上、イエス様以外には誰も救い主の条件にふさわしい人はありません。聖人と呼ばれる釈迦や、孔子、ソクラテスも、みなアダムの子孫として原罪を持った人々であり、神様の御前で聖なる生活が送れなかったので、ただイエス様だけが救い主になる資格がおありになるのです。

2.イエス様は「命まで与えられる愛がなければならない」という救い主の四番目の資格条件を備えておられます。

弟が借金のため罰せられることになったとき、裕福な兄が借金を返してくれれば、罰を受けなくてもよくなります。ところが、兄がいくら金持ちでも、弟を愛していなければ何の役にも立ちません。弟を愛してこそ、損害をこうむっても弟の借金を返してくれるからです。
土地の買戻しの法則でも、貧しい人が土地を売るようになったとき、裕福な親戚がいてもその人が愛で相手を助けようと思う時に初めて、土地の買戻しが成立するのです。
人類の罪を贖うことも同じです。イエス様は救い主としての三つの条件をすべて備えられましたが、万一イエス様に愛がなかったとすれば、人類の罪を贖ってくださらなかったでしょう。
すべての人類の救い主になろうとするなら、罪人たちの代わりに死の刑罰という途方もない犠牲を払わなければなりません。しかも、最も凶悪な罪人のように、あらゆるさげすみを受けて木の十字架にかけられ、水と血をすべて注ぎ出して処刑されなければなりません。
この世には罪人を処刑する方法がいろいろとありますが、霊的には、罪人たちの罪を贖う救い主は、ただ身代わりに死ぬだけならよいのではなく、霊の世界の法則によって必ず木にかけられるべきであり、血を注ぎ出して死ななければなりません。
それで、ガラテヤ人の手紙3章13節に「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」とあるのです。
ここで「律法ののろい」とは、ローマ人への手紙6章23節にある「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則を意味します。霊の世界の法則によって、罪を犯した人に死という律法ののろいが臨むようになったのですから、救い主が律法ののろいから人類を解放する方法も、霊の世界の法則に従うべきです。すなわち、のろわれた人がかけられねばならない木に、救い主が代わりにかけられて死ななければならないのです。
血を注ぎ出して死ななければならないことも同じです。レビ記17章14節に「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」とあり、ヘブル人への手紙9章22節には「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。
霊的に血とはいのちそのものですから、救い主の血が注ぎ出されて初めて、罪人たちが罪を赦されていのちを得ることができる、と言われているのです。誰でも木にかかって血を注ぎ出すからといって人類の罪が赦されるのではなく、他の人の罪の代価が贖える血は、罪の性質が全くなく、傷もしみもないきよい血でなければならないのです。
ところで、罪のない人が何のために他の人の代わりにこのように残酷に殺されようとするのでしょうか? 自分のいのちより相手をさらに愛する時に初めて、そのような犠牲が喜んで払えるのです。イエス様はこのような十字架の愛を与えられるために救い主になられました(ローマ5:7-8)。
愛する聖徒の皆さん、神様の愛は変わったり自らの利益を求めたりする愛ではありません。神様に聞き従わずに敵対する罪人たちのためにひとり子まで渡された愛であり、自分たちのために来られた救い主をあざけって釘づけて殺す罪人たちについても、「父よ。彼らをお赦しください。」と求めて、いのちさえ渡された真実の愛です。
前号に続いて、イエスが救い主になられる四つの資格条件について調べました。ただイエス様だけが救い主になられるという事実を明らかに悟って、イエス・キリストを受け入れて救いに至るだけでなく、まことの信仰を所有して多くの魂を救いの道に導かれますよう、主の御名で祝福して祈ります。


 

 

 
よく読まれている記事
   

 
総合アクセスランキング
   

 


万民ニュース, 万民, 万民教会, 万民中央教会, イ・ジェロク牧師, drLee