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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛は人をねたまず、自慢せず

万民ニュース   第 123 号
4681
2013. 01. 27


「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4) (시편 37:6)



堂会長イ・ジェロク牧師




そねみ、嫉妬は人にとって怖いがんのような要素です。これは自分とかかわりのない人に対してはあまり感じませんが、近い仲やライバル関係ではよく現れます。たとえば、飲食店を営んでいる人は、ある会社員が出世して認められても、そねみません。けれど、近所に同じ業種の飲食店を営む人が成功すれば、嫌いになって不安になります。
このようなそねみ、嫉妬がひどくなれば、ねたみが出て来ます。自慢も同じように自分を誇って認められたい心があるので、争いを起こして、そねみ、嫉妬を呼び起こすだけです。それなら、どうしたらねたまないで自慢しない霊の愛を心に耕せるでしょうか?


1. 愛は人をねたみません

ここで言う「ねたみ」とは、心のそねみ、嫉妬がひどくなり、他人に悪を行うことです。他の人がうまくいったり愛されたりすると心が穏やかでなくなるということは、そねみ、嫉妬があるからです。
そねみ、嫉妬があれば、自分より裕福だし能力が大きい人を見れば、自尊心が傷つきます。一緒に入社した同僚はスピード昇進しているのに、自分はいまだに下積みだから、うらやましくもあり、苦々しくもなります。力が抜けて働く意欲までなくなります。このようにそねみ、嫉妬があれば、気を落とします。相手と自分を比べて、劣等感ばかり大きくなります。
霊の愛があれば、真理を喜びます。相手の喜びを自分のことのように感じるからです。相手がうまくいけば気を落として力が抜けるということは、それだけ愛がないという証拠です。つまり「自我」が生きているということです。相手より愛されて認められたいという自我が生きていれば、自尊心が傷ついてそねむようになります。
このようなそねみ、嫉妬がひどくなれば、悪い言葉と相手に害を与える悪い行いまで出てくるものです。これを「ねたみ」と言います。ねたみは悪くて醜い心の罪の性質が表に現れた明白な肉の行いなので、救われにくいのです(ガラテヤ5:19-21)。
その例として、イスラエルの初代王サウルはダビデをねたんで、悲惨な最期を迎えました。ダビデはペリシテの敵将ゴリヤテから国を救った英雄です。3メートル近い長身に青銅のかぶとで武装したペリシテ最高の戦士ゴリヤテが、四十日間、神様とイスラエル軍をなぶりました。それでもサウル王とイスラエル軍は、どうすることもできないまま震えているだけでした。
この時、すい星のように現れたダビデが、神様をなぶった敵将を石投げと一つの石をもってただ一度で倒しました。イスラエルは大勝利を収めて、ダビデは一躍国家的な英雄になり、民に愛されます。サウル王は後日、ダビデを戦士たちの長とします。
ところが、サウル王のそねみ、嫉妬を刺激することが起きてしまいます。ダビデがペリシテ人を打って帰って来たとき、数多くの民が出て来て大歓迎します。この時、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」(第一サムエル18:7)と歌います。これにサウルは非常に怒ります。
「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」と言って、その日からダビデを疑いの目で見るようになります(第一サムエル18:8-9)。そして、悪い霊に苦められている自分のために琴をひいているダビデに、槍を投げて殺そうとするかと思えば、ペリシテの人の手で死ぬように陰謀を企み、最高の戦士たちによって殺そうとします。執拗なサウルのねたみは、サウルがペリシテとの戦闘で死を迎えてやっと終わりました。
<ヨブ記4:8>に「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。」とあり、<箴言14:30>に「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」とあります。自分が行った悪はブーメランのように帰ってくるものです。害毒を蒔いた代価として病気になったり、家庭や職場が災いにあったりします。そねみ、嫉妬、ねたみは百害あって一利なしだし、御霊の歩みに入るのに大きい障害物になるので、完全に私たちの心から引き抜かなければなりません。


2. 愛は自慢せず

自慢するとは「自分を目立たせること、鼻にかけること」を言います。人はたいてい、他の人より自分が優れている分野があれば、自慢したがります。人に認められてほめられたいからです。相手がうまくいっているのを認めてほめることは、とても渋ります。相手が目立つほど自分が陰に隠れるので、相手を引き下ろそうとします。ですから、自慢が争いを起こしたりもします。自慢すれば高められて認められそうですが、正反対です。
<第一ヨハネ2:15-16>に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とあります。
ここで「暮らし向きの自慢」とは、現実のすべての享楽を追い求め、自分を目立たせるために誇ろうとする属性のことを言います。肉にある人々は一族や名誉、権勢、高級乗用車、家や宝石などを自慢します。権力者や有名人と懇意にしていれば、肩をそびやかして誇らしく思います。彼らは人生の価値をこの地上に置いているからです。
しかし、これらを自慢しても、自分にとって何の益になるでしょうか。日の下で労苦したすべてのものは空になるし(伝道者1:2-3)、人生は一瞬のうちに咲いて散るだけの野の花のように、すぐ過ぎ去ります(詩篇103:15)。この世の自慢はまことの価値といのちを得られないし、むしろ神に対して反抗し、死の道に向かうだけです。


3. 主を誇りなさい

私たちが世を愛するようにさせる真理に逆らうものを捨てれば、自慢したい心や世の富と栄華、名誉を求めようとする欲もなくなります。<第一コリント1:31>に「誇る者は主を誇れ」とあります。自分を高めるためにでなく、神様の栄光のために誇りなさいということです。
私たちを救われた主の十字架を誇り、神様が下さった恵みと答えられた証しをして誇るのは非常に望ましいことです。これは神様に栄光を帰すことであり、人々に信仰と希望を植えつけるからです。このように主を誇れば神様が喜んで、霊肉ともに祝福として報いてくださいます。
ところで、神様に栄光を帰すと言いながら、それとなく自分を誇る人もいます。「私がこれくらい努力したので、祝福されることができた」と自分を現すのです。結局は自分の功に帰すので、サタンに訴えられて、試練や患難にあったりもします。
世の自慢の種は永遠のいのちと満足を与えません。むしろむなしい欲を呼び起こし、滅びへと導くだけです。ですが、私たちの中に天国の望みを満たしていけば、暮らし向きの自慢を捨てられる力が与えられるのです。まるで小さい時はあんなに好きだったおもちゃが、おとなになればつまらなくなるように、心を真理で満たしていけば、肉的な誇りや世にあるものはあまりにもつまらなくなるのです。
愛する聖徒の皆さん、使徒パウロが「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)と告白したように、私たちを救って天国を下さったイエス・キリストだけを高めて誇りますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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