Manmin News, Manmin, Manmin Central Church, drLee, jae-rock Lee
 
 

光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
New Update
光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

いのちのみことば-霊の愛シリーズ - 愛は礼儀に反することをせず

万民ニュース   第 125 号
4685
2013. 03. 24


「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、」 (第一コリント13:5)



堂会長イ・ジェロク牧師



マナーやエチケットという言葉は、人の立ち居振る舞いや行動様式、態度や礼儀を表す言葉としてよく使われています。挨拶や話の仕方など、国や時代によって違いはあるでしょうが、人と人との間に守るべき礼儀があるはずです。ところが、意外に多くの人が礼儀に反することをしていても悟れないのです。特に身近な人に対してそうする傾向があります。遠慮なく気楽に接するということが、まかり間違えば礼儀に反することをしたり言ったりして、被害を与えやすいのです。

まことに愛があるなら、礼儀に反することはしません。もし自分にとって特別な意味のある高価な宝石があるなら、むやみに取り扱うでしょうか? ひょっとしてでもなくすか傷つけるかと、こわごわ大事に扱うでしょう。ましてまことに相手を愛するなら、どれほど大切にするでしょうか。



1. 神様に礼儀に反することをする場合

神様を愛すると言いながら、いざその言動はというと、愛とはかけ離れている場合があります。その代表的なものは、まさに礼拝時間に居眠りする姿です。大統領や上司の前で居眠りするのも礼儀に反することなのに、まして神様の前でうとうとするなら、神様を愛していると言うことが真実なのか、疑わざるをえません。

礼拝時間に隣の人と話をしたり、他のことを考えているのも、礼儀に反することです。神様を恐れる心が足りないということを端的に物語っています。これは説教者に対しても同じです。説教時間に隣の人と話をしたり、雑念にふけったり居眠りしたりしているなら、説教者は「メッセージに恵みを受けていないのでは」と心配して、御霊に感じられなくなります。結果的に、自分だけでなく、一緒に礼拝をささげている人々にも被害を与えているのです。

礼拝の途中で出て行くのも礼儀に反することです。礼拝の奉仕をするために出て行く例外的な場合でなければ、最後まで席に座り、礼拝に集中しなければなりません。黙祷や使徒信条で始め、祝祷や主の祈りで終える時まで、すべての式順を心を尽くしてささげなければなりません。賛美や祈りの時間はもちろん、献金やお知らせの時間も同じです。公式礼拝の他に賛美礼拝、区域礼拝などをささげる時も、いつも同じ心でまことを尽くしてささげなければなりません。

このように心を込めて礼拝をささげるためには、何より遅刻することがあってはなりません。人との約束時間に遅れるのも大変失礼になるのに、まして神様の前に遅れるなら、どれほど礼儀に反することでしょうか。あらかじめ来て、祈りで備えるのが礼儀です。この他にも、お酒を飲んだりタバコを吸ってから礼拝をささげること、礼拝時間に携帯電話を使うこと、騒いでいたずらしている子どもたちを放っておくこと、礼拝時間にガムをかんだり、何かを食べたりするのも礼儀に反することです。

礼拝に来る時の服装も大切です。家で気楽に着ていた服のまま、何の気遣いもなく来ることは礼儀正しくありません。清潔で端正な姿で来なければなりません。もちろん例外もあります。水曜礼拝や金曜徹夜礼拝の時、仕事を終えて急いで来たので作業服姿だったとしても、神様は無礼だと言われません。忙しいスケジュールの中でも何としてでも礼拝に参加しようとする心を、かえって喜ばれます。

この他にも、急用だからと祈っている人をトントンたたいて祈りをやめさせたり、誰かが自分を呼ぶからと直ちにやめることは、神様との対話を一方的に終える無礼なことに当ります。

私たちが霊とまことによって礼拝をささげて祈れば、神様が喜んでお受けになり、祝福と報いとして返してくださいます。反対に、いつも礼儀に反することをするなら、神様との間に罪の隔ての壁ができて、病気、事故などさまざまな問題にあったり、長い間祈っても答えられにくいのです。


2. 聖殿で礼儀に反することを行う場合

聖殿とは、礼拝室のことだけを言うのではありません。聖殿に属する庭と付属施設など、すべての空間を意味します。したがって、聖殿のどこででも言葉と行動に注意しなければなりません。大声でけんかしたり、事業や娯楽など世の話をしてもいけません。また、聖殿の中にある聖なる物を傷つけたり浪費してもならないし、献金封筒を自分の好きに使ってもいけません。

さらに、聖殿の中での売買行為は厳しく禁じなければなりません。教会の事務室でインターネット決裁をして品物を受け取っても、売買だと思わないことがありますが、これも明らかな売買です。聖殿の庭で神様にささげるために動物を売って、両替していた人の台や腰掛けを倒されたイエス様の姿を覚えておいてください(マタイ21:12-13)。いけにえとしてささげる物でも許されなかったのに、まして個人の必要のための売買は、決してしてはならないのです。教会でバザーを開くのも同じです。

聖殿は神様を礼拝し、主にあって交わる聖別された場所です。聖殿が聖なる所であることについて、ややもすれば無感覚になって、神様の前に礼儀に反することを決してしてはなりません。


3. 人に礼儀に反することをする場合

相手の立場を考えないで自分の利益だけを求めれば、礼儀に反する行いが出てきます。ささいなことですが、電話をする時にも守るべき礼儀があります。夜遅く電話したり、忙しい人に電話して長々とつかまえているなら、相手に被害を与えることです。また、約束時間に遅れること、人の家に予告なしにいきなり訪ねて行くのも、礼儀に反することです。

「遠慮のない間なのに、そんなにいちいち考えるのは、むしろ水くさいのでは」と思うかもしれません。もちろんすべてを理解するほど気がねのない間もあるでしょうが、人の心を100%推し量ることは難しいのです。自分は親しいと思っているかもしれませんが、相手は違うこともあります。したがって、いつも相手の立場で考えることに努めなければなりません。

たとえば、親しい仲だからといって、後先を考えないで話をして、傷つけることもよくあります。家族または親しい友だちに礼儀に反することをすると、かえって他人より悪い関係になることもあります。また、年が若かったり地位が低い人だからといって、礼儀に反することをする場合があります。気楽にため口をきいたり、無視して命令する態度で不快感を与えたりします。

しかも今日は、親や恩師など当然仕えるべき対象にも、心から仕える姿は見つけにくいです。ある人は世代が変わったから仕方ないと言いますが、いくら歳月が流れても変わらないことがあります。<レビ記19:32前半節>に「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、」とあります。神様のみこころは、人との間でも人としての道を踏み行うことなので、世の法と秩序もよく守って、礼儀に反することがあってはなりません。

愛する聖徒の皆さん、ほとんどの人は毎日のように誰かに会って話をして、食事をしたり仕事をしたりなど、多くの時間を一緒に過ごします。ところが、人によって学んだことと知識が違って、国と民族によって文化も違います。それなら、何を基準にして礼儀を守らなければならないでしょうか? それは私たちの中にある「愛の法」です。

「愛の法」とは、愛そのものであられる神様の法のことです。神様のことばを糧として行っていくほど、キリストの教育によって育てられ、礼儀に反することはしません。愛の法に込められているもう一つの意味は、まさに「配慮」です。配慮には人の心を動かす偉大な力があります。何をしようが誰に対そうが、主に対してするように礼を尽くして仕えますように、主の御名によって祝福して祈ります。



 

 

 
よく読まれている記事
   

 
総合アクセスランキング
   

 


万民ニュース, 万民, 万民教会, 万民中央教会, イ・ジェロク牧師, drLee