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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛は怒らず

万民ニュース   第 127 号
4679
2013. 05. 26


「礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず、」
(第一コリント13:5)



堂会長イ・ジェロク牧師



時々、相手が被害を与えたり、あることが自分の思いどおりにならないと、腹を立てる人がいます。このような気持ちを表に現すことがまさに怒ることです。
愛は人の心を肯定的にしますが、怒ることは人の心を傷つけて否定的にします。怒りは心を暗くするので、神様の愛のうちにとどまれなくて、霊的成長も遅くなるしかないのです。
敵である悪魔・サタンは神の子どもたちが怒ってつまずくようにさせます。彼らが神の子どもに仕掛ける代表的なわなが、まさに憎しみと怒りです。私たちが怒ることのない霊の愛を所有して、神様に栄光を帰す子どもになるには、どうすべきでしょうか?


1. 義憤と怒りの違い

怒ることとは、ひどく腹を立てたり、大声で汚い言葉を口にして暴力をふるうことだけではありません。顔がこわばって顔色が変わること、口調が無愛想になることも、厳密に言えば怒るということです。程度の差はあれ、心にある憎しみ、わだかまりが表に出てくるのです。かといって、相手の表情だけで「腹を立てたんだな」とさばくことはできません。どこの誰も相手の心を正確に推し量ることは難しいのです。
マタイの福音書21章を読むと、イエス様が宮で売買する者たちを追い出される場面があります。過越の祭りを過ごすためにエルサレムの宮に集まった人々を相手に、商人たちが庭に台を置いて、両替をしたり動物を売ったりしていました。
いつもは争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もないほど柔和なイエス様が、この光景をご覧になって突然変わられました。細なわでむちを作って、いけにえに使われる動物を宮から追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。
人が見ると「イエス様がものすごく怒っておられる」と思うかもしれまんが、そうではありません。いくら良い目的でも、神の宮を汚すことは決して許されないことを教えてくださったのです。これは、公義で愛を完全なものになさる神様の愛から始まったことなのです。
マルコの福音書3章を読むと、イエス様が会堂で片手のなえた人に出会います。ちょうど安息日だったので、悪い人々はイエス様の様子をじっと見ています。もしその人を直せば、安息日を破ったと見なして訴えるためでした。この時、イエス様は彼らの心を知って聞かれます。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(マルコ3:4)すると彼らは何も言えません。
良いわざだけを行われるイエス様を罪に定めて殺そうとする彼らに向かって、イエス様は強く責められました。何としてでも彼らが悟って、罪から立ち返ることを願われたからです。イエス様がパリサイ派の律法学者たちを責めて義憤を見せられたのは、魂たちを目ざめさせていのちへと導くための愛から始まっていました。このように怒りと義憤は全く違います。そのくらい聖められて罪がないとき、義憤や叱責を通してでも魂にいのちを与えるみわざが起きるのです。


2. 人が怒る理由

人が怒る理由は第一に、相手が自分の思いと心に合わないからです。人はそれぞれ成長した環境や学んだことが違うために、心と思いが違います。教養や判断基準も違います。それなのにすべての人を自分に合わせようとするから、気に入らないのです。
次に人が怒る理由は、自分に従わないからです。自分が相手より先んじていたり、高い地位にいれば、従ってほしいと思います。もちろん目上の人を尊重して、秩序に合わせて従うことは正しいのですが、従順を強いるのは正しくありません。目上の人が目下の人の話は全く聞こうとしないで、ただ自分の意見に従ってほしいと思ってはいけません。
これ以外にも、自分が不利益をこうむったり不当な待遇を受けたとき、何の理由もなく恨まれたり被害を受けたとき、自分の指示や要求どおりになされなかったとき、誰かに悪態をつかれたり蔑まれたりするとき、すぐ怒ります。
怒るには、まず心で悪い感情が動き出します。相手の話や行動が感情を刺激して、怒るという行動として出てきます。よく「気を悪くする」という段階が、まさに怒ることの前哨段階です。私たちが怒るなら、神様の愛のうちにとどまることができなくて、霊的成長に莫大な支障を招きます。こんな感情がある以上、真理に変えられることもできないのです。


3. 怒る人の結果

エリシャは師であるエリヤの霊の、二つの分け前を受けて、神の力を現した預言者です。子どものいない女にみごもりの祝福を与えて、死んだ人を生き返らせて、ツァラアトに冒された者をきよめ、祈りで敵軍を退けるなど、驚くべき神のみわざを現しました。それなのに、彼は預言者としては珍しく、病気にかかって死にました。その理由は何でしょうか?
エリシャがベテルへ上って行く時でした。一群の子どもたちがエリシャを囲んで「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭」(第二列王2:23)とからかいました。彼が髪の毛が少なく、容貌がみすぼらしかったからです。エリシャは良い言葉で言い聞かせてもみましたが、子どもたちはさらにしつこく苦しめました。これ以上耐えられなくなったエリシャは、思わず呪ってしまいます。すると森の中から二頭の雌熊が出て来て、あっという間に四十二人の子どもをかき裂いてしまいました。
この出来事は、たとえ子どもたちのひどいからかいから始まったとしても、エリシャの心にも怒りを引き起こす感情という悪が残っている証拠です。彼が病気にかかって死んだのも、これと無関係ではありません。これは、神の子どもとして怒ることが正しくないことを悟らせてくれているのです。<ヤコブ1:20>に「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあるとおりです。


4. 怒らないためには

スプリングは抑えるほどもっと反動力がついて、手を引いた瞬間、はね上がります。同じように、怒りを抑えて我慢すれば、一瞬の危機は免れても、いつかは爆発するはずです。怒らないためには、怒りを引き起こす感情そのものを捨てなければなりません。無理に抑えて我慢するのではなく、最初から我慢することがないように、心を善と愛に昇華させなければならないのです。
もちろん、一日でこのような感情を捨てて、善と愛で満たせるのではありません。毎日絶え間ない努力が必要です。まず、怒りを引き起こしそうな状況に直面したとき、祈りで神様にゆだねて我慢する訓練をしなければなりません。腹が立つ時は「今この瞬間、怒ることが自分にとって何の利益になるのか」ゆっくり考えてみますように。すると、一瞬我慢できなくて後悔することや、恥をかくことは起こりません。
このように、霊の愛を心に耕すために祈って、聖霊に助けられて耐え忍んでいくなら、怒りを引き起こす感情まで徐々に捨てられます。前は十回怒っていたのが九回、八回とますます減っていきます。後には、いくら腹が立つような状況になっても、心が穏やかになります。
愛する聖徒の皆さん、
ひょっとして教会では腹が立つことがあっても我慢して、家庭や学校、職場ではよく怒ってはいないでしょうか? 神様は教会にだけおられるのではありません。私たちの心を聖殿としておられ、いつどこででも私たちの思いと言葉と行いを探っておられるのです。いつも聖なる言葉と行いで神様に栄光を帰しますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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