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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

全き愛

万民ニュース   第 133 号
4041
2013. 11. 24


「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。・・・・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第一コリント13: 8-13)



堂会長イ・ジェロク牧師



私たちが永遠の天国に入るとき、ほしいものを一つだけ持っていけるならば、何を持っていくべきでしょうか?
天国は足で踏んで歩く道さえ黄金で作られています。また、神様が愛する子どもたちの心を推し量って備えられた天国の家は、この地上のものとは比べられないほど美しく、尊い黄金と宝石で作られているのです。ですから、高価な黄金や宝石は天国に持っていく必要がありません。ただし、永遠の天国に入って神様と愛を分かち合うために、どうしても必要なものがあります。それはこの地上に生きている間、私たちの心に耕した霊の愛です。


1. 天国でも永遠に価値ある愛

コリント人への手紙第一13章8-10節に「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」とあります。預言や神様を知る知識は御霊に属するものですが、なぜ天国に入ればなくなるのでしょうか?
霊の世界である天国は完全なところです。私たちがこの世で預言しても、やがて天国で知って悟るのとは次元が違います。天国では神様と主のお心をよく知っているので、預言がそれ以上必要ではありません。
それなら、人の異言はどうでしょうか? これもそうです。この地上では、国や民族、地域によって別の言語を使っているので、話をするには互いに通じにくいところがあります。ですが、天国に行けば言語が一つだから理解できない心配がなく、良い心がそのまま伝えられるので、誤解や偏見がありません。
知識も同じです。この地上では、神様を知るために熱心に学びます。どうすれば救われて、神様のみこころが何か学びますが、これは天国に行くのに必要な、極めて一部分にすぎません。
このように預言や異言、知識などは天国に行くために一時的に必要なだけです。したがって、天国について知っていることも重要ですが、「霊の愛」を心に耕すことのほうがさらに重要です。罪を捨てて心の割礼をして、霊の愛を実践するほど、よりすばらしい天国に行けるからです。


2. 天国で完全に感じられる愛

コリント人への手紙第一13章11節に「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」とあります。
天国には闇や心配、憂いがないし、善と愛だけがあるので、思いきり愛を表現して仕えられます。このように、肉の世界と霊の世界には明らかに違いがあるのです。もちろんこの地上でも、信仰の量りに応じて話をして、悟って、思うことが違ってきます。
ヨハネの手紙第一2章では、信仰の各段階を子ども、小さい者、若い者、父にたとえています。子どもや小さい者の信仰の人は、霊的に深みのあるみことばはあまり悟れなくて、みことばを守り行う力が少ないです。そのうちに若い者の信仰になって、さらに成長して父の信仰になれば、神様の愛を感じて悟る次元も変わってきます。みことばどおり行える力も大きくなって、闇の勢力とも戦って勝つことができます。
しかし、いくらこの地上で父の信仰になったとしても、肉の限界があるために、天国に比べるならやはり子どものようです。私たちがこの地上に生きている間、天国を信じて望むほど天国が美しいところだということはわかりますが、どれほど美しいのか、その光がどれほどきらびやかなのか、完全に悟るのは難しいのです。しかし、天国に行けば、その時は無限に広くて神秘的な霊の世界と、すべてのものが動かされる原理も、いくらでも悟れます。
この地上の人生は永遠の天国の人生を準備する過程だと言えます。永遠の天国に比べれば、この世は影のようなものなので、すぐ過ぎ去ります。永遠の世界がどうなのか察するようにする影であるだけで、決して永遠ではありません。影のような人生が過ぎれば、その時には実体である天国がはっきりと現れます。
それで、コリント人への手紙第一13章12節に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるのです。
使徒パウロが愛の章を記した時代は約二千年前です。当時、鏡は銀、青銅、鉄などで作られていて、今のようにはっきり映らなかったので「鏡にぼんやり映る」と書いてあるのです。ところが、やがて天国に入れば、詳しいところまでもはっきり見て、肌で感じて、霊的なことを明らかに知ることができます。
霊であられる神様について「神様はこんなに大いなる偉大な方なんだ。言葉で形容できないほど美しいお方だな」と知るようになるのです。


3. 信仰、希望、愛の中で一番すぐれているのは愛

私たちの信仰が成長することにおいて、信仰と希望は非常に尊いものです。信仰があってこそ救われて天国に行って、神の子どもになることができるからです。また、信仰があるなら、当然希望を持つようになります。希望を持つことによって、よりすばらしい天国を攻めて行けるし、聖められるために努めて、熱心に忠実に仕えます。
このように、信仰と希望は天国に行くその日まで、どうしても必要なものです。それなのにコリント人への手紙第一13:13に「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と記されている理由は何でしょうか?
第一に、信仰と希望は人間耕作を受けている間、必要なだけで、天国では霊の愛だけが残るからです。
まことに信仰があって、神様を愛するなら、歳月が流れるほど、信仰が大きくなるほど、天国への希望がさらに大きくなるはずです。時間が経つほど胸にしみるほど主にお会いしたくなります。
このように天国への希望がある人は、この地上で狭くて険しい道を歩んでも「つらい、苦しい」と言わないし、どんな誘惑にも揺さ振られません。ところで、最終目的地である天国に行けば、それ以上見ないで信じる信仰が必要ないし、希望もやはり必要ではありません。ただ愛だけが天国で永遠に続くので、愛が一番すぐれていると書かれているのです。
第二に、信仰によって天国を所有しますが、愛がなければ最もすばらしい場所、新しいエルサレムに入ることができないからです。
私たちは信仰と希望をもって行ったほど、よりすばらしい天国に入れます。みことばどおり生きて、罪を捨てて美しい心に変えられたほど霊の信仰が与えられて、この信仰の量りに応じてパラダイス、一天層、二天層、三天層、新しいエルサレムに住まいが分けられます。
新しいエルサレムは、信仰によって全き愛を心に耕した神の子どもたちに与えられる天国であり、愛の結晶体です。私たちが主に似せられて、新しいエルサレムにとどまるためには、主が行かれた道について行くべきですが、その道がすなわち愛なのです。この愛があってこそ、私たちに御霊の九つの実と八つの幸いが臨んで、主のお心に似せられていけます。私たちに信仰があるとき天国に行けて、希望があるとき罪を捨てられます。信仰と希望は確かに必要なものですが、全き愛がある時でこそ新しいエルサレムに入れます。それで、愛が一番すぐれていると書いてあるのです。

愛する聖徒の皆さん、
コリント人への手紙第一13章に記されている霊の愛を完全に所有して、神様に喜ばれる幸いな聖徒になられますように、主の御名によって祈ります。


 

 

 
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