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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」

万民ニュース   第 153 号
3970
2015. 07. 26


「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」 (出エジプト20:17)


堂会長イ・ジェロク牧師






人の欲しがる心には終わりがありません。ある程度の所有があっても「充分」と言わず、より多くを得ようとするのです。ですが、多くを得たとしても、その心の飢え渇きは解消されるのではありません。永遠のいのちを求めて天国の望みで心を満たす時でこそ、まことの満足と喜びが臨むからです。


1. 世のものを欲しがる心を捨ててこそ

多くの人が派手な家や珍しい物を見れば「本当にすばらしいな、美しい」と感心します。ところが「本当にすばらしい」という思いを超えて「私も持ちたい」と思うようになると、それを通して欲しがる心が芽生えるようになります。それで<ヤコブ1:15>に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるのです。

物質を欲しがる心だけでなく、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢が結局これと同じ根であり、世の欲を愛して求めようとする心です。このような心があるので、嘘、盗み、姦淫、強盗、詐欺、横領、殺人など、あらゆる罪を犯すのです。

欲しがる心のせいで兄弟や親子、あるいは夫婦が敵同士になることもあり、真理を喜べず、自分より多く持っている人をねたんでそねみます。<第一テモテ6:10>にも「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」とあります。

神を信じるという人の中でも貪欲ゆえに罪を犯すことがよくあります。旧約聖書のアカンという人は戦利品の中から金銀と外套を盗んで隠しました。これによって彼はもちろん、すべての家族と家畜まで滅ぼされたのです。また、アナニヤとサッピラは地所を売って神にささげることにしましたが、貪欲のゆえ一部を隠して残りをささげておきながら、全部だと欺きました。結局、彼らは神に呪われて死んでしまいました。


2. たましいに幸いを得ている人は欲しがる心がない

人がいくら多くを味わって、さらに全世界を手に入れても、いのちを損じたら、何の得があるでしょうか。反対に、世で富と栄華を味わっていなかったとしても、主を信じてまことのいのちを得たなら、本当に豊かな人になれます。

ルカの福音書16章を読むと、ある金持ちとラザロという貧しい人のたとえがあります。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らしていましたが、ラザロは金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思うような卑しい暮らしをしていました。金持ちは神を信じない反面、ラザロは神を恐れて生きました。結局ふたりとも死を迎えましたが、ラザロは御使いたちに連れて行かれてアブラハムのふところに抱かれました。しかし、金持ちはハデスに行って、苦しみにあうことになりました。

このように、本当に信仰があるなら、現実ではいくら祝福されずつらい身の上でも、救われた感謝と喜びを失うことなく、卑しい暮らしも意に介しません。もちろん、神を恐れて光の中を歩んでいるなら、万物の主であるイエス様が私たちのすべての貧しさを贖ってくださったので、私たちの信仰のとおり豊かな祝福をいただくことができます。愛なる神は信仰によって求める子どもたちに最も良いものをもって答えてくださるからです。

<第三ヨハネ1:2>に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、心の罪と悪を捨てて、たましいに幸いを得ているようになると、天国で永遠の栄光を受けるだけでなく、この地上でもすべての点に幸いを得、健康であるようになります。これが霊の世界の法則です。

たましいに幸いを得ていない人が多くの物質を手に入れる時は、かえって欲がはらんで罪を犯すこともあり、結局神を離れることもあります。暮らし向きが厳しかった時は、純粋な心で神を愛して頼り熱心だったのに、事業の場が祝福されると、忙しいという理由で祈りをやめるなど、神を遠ざけて世に心を奪われるのです。

反対に、たましいに幸いを得ている人は世のものを欲しがることなく、祝福されて物質や名誉を得ても、そのために世の欲に落ち込むことはありません。世の良いものを得られないからと恨んで不平を言うこともなく、むしろ神のために自分のすべての所有といのちまで自らあきらめることもできます。

使徒パウロも、誰よりも忠実に働いて、多くの迫害と飢え、寒さと苦しみにあいましたが、救われた喜びと神の愛が満ちていたので、どんな境遇にあっても満ち足りることを学び、感謝しました(ピリピ4:11-13)。


3. 欲しがる心を捨てて御霊によって祈らなければ

たましいに幸いを得ている祝福が大事だからといって、御霊の歩みに入る前は祈りに答えられないとか、つらそうに生きなければならないという意味ではありません。熱心に義を追い求めて行いながら必要なものを求めば、神が信仰の量りに応じて答えてくださいます。しかし、欲をもって願った時は、祈っても信じられる信仰が与えられず、答えられないのです。

<ヤコブ4:2-3>に「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあるとおり、自分の快楽のために使おうと求める時は、神がお与えになれません。

したがって何かを願うとき、人の思いの中で祈るのでなく、みこころにかなうように、御霊によって祈らなければならないのです。<ユダ1:20>に「聖霊によって祈り、」とあり、<エペソ6:18>にも「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と頼んでおられるのです。聖霊、すなわち真理の御霊は神の心を探り、神の深みにまで及ばれるので(第一コリント2:10)、御霊によって祈ることはみこころにかなうので、神に喜ばれるようになります。するとすみやかに答えられるので、たましいに幸いを得るだけでなく、心の願いもすみやかにかなえられるのです。

私たちが御霊によって祈るために最も大切なことは、心を尽くして祈ることです。一瞬一瞬、切なる真実な祈りを神にささげなければなりませんが、まずは強くされるように求めなければなりません。病気を直す力だけでなく、世に勝ち、敵である悪魔に立ち向かって勝つ信仰の力を求めなければならないのです。また火のような祈りの力とみことばの中で生きられる力、御霊による思いができる力を求めなければなりません。

このように神に霊的な力を求めて心を尽くして祈れば、だんだん御霊に満たされ、自分には思いもよらなかった祈りの内容が泉が湧くように出てきます。こういう祈りをすれば、長時間主を呼び求めて祈っても疲れず、かえって新しい力が湧き上がるのです。無理に祈ればつらくて大変ですが、心から主を呼び求めて御霊に満たされると、むしろ祈りをやめるのがもったいないほどになります。求めるものは何でも答えが見えてくるし、心は御霊に満たされて喜びがあふれます。

次に、私たちが御霊によって祈るために大切なことは、みことばを武具として身に着けることです。神のことばが心の糧となっていてこそ、御霊が何かを働きかけても、明確で具体的に受けることができます。毎日火のような祈りが積まれるほど、心の貪欲とすべての罪と悪がすみやかに捨てられ、何でも答えられる信仰が与えられます。

世のものを欲しがる心を捨てて、どんな境遇にあっても満ち足りることを学び、天国の望みでいつも感謝と喜びがあふれますように。また、御霊によって火のように祈り、すみやかに聖められ、すべてのことにおいて神のお心にかなうことを願って答えられる皆さんになりますように。

愛する聖徒の皆さん、
神が戒めを下さったのは、私たちをつらくさせようとなさるためではなく、霊肉ともに完全な祝福を与えようとなさるためです。このような愛を悟って、戒めを完全に守り、神が約束されたすべての祝福をいただきますように。


 

 

 
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