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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

寛容の実

万民ニュース   第 160 号
3736
2016. 02. 28


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)




人がどんな状況で「寛容を示すのかそうでないのか」によって、幸不幸が決められることが多い。また、学業や職場、事業などでの成功、失敗も、寛容の心があるかによってその結果が大いに違ってくる。霊的にも同じである。神に答えをいただく時も、どれほど寛容の心になっているかによってその答えの実が違ってくる。はたして寛容の実とは何だろうか?


1. 寛容ということばそのものが必要ない寛容の実

御霊の九つの実の一つである「寛容」はすべてに対して寛容を尽くすことで、第一コリント13章(愛の章)にある寛容より一次元高い。霊的な寛容とは、善で満たされていてどんなことでも受け入れられる心である。寛容という言葉そのものが必要なく、結果的にさらに広くて大きい心に変えられるようになる。

赤ちゃんが高い熱を出せば、お母さんは看病に苦労する。夜を明かすこともあり、食事ができないこともあるだろう。それでもつらいと思わず「どうすればよくなるだろうか」にだけ心を注ぐ。そのうち赤ちゃんの熱が下がれば、自分が大変だったことを考えもしないで喜んで幸せになる。

霊的な寛容もこれと似ている。神の国の栄光のためであれ、自分の聖めや願いのためであれ、目的を達成するまでには苦しみがあるが、その実を目で見るという希望があれば、信仰と愛をもって待つことができる。だから、寛容の実が完全に結ばれるなら、どんなことにあっても感情が揺れないのだ。


2. 霊的な寛容の三つの分野

第一、心を変えさせるための寛容

心に悪が多いほど寛容であるのが難しいが、聖められるほどやさしくなる。<ルカ8:15>に「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とある。

心の地を耕して良い地にするためにも、努力と忍耐の過程は必要である。聖められるためには心を尽くして火のように祈って、断食して徹夜の祈りをするなど、絶えず自分を打ちたたいて従わせていかなければならない。前に好きだったことも断ち切らなければならないし、霊的に益にならないなら捨てなければならない。

つらいからといって休んではいけない。聖めの実を完全に刈り取る時まで絶えず労苦して自制し、みことばどおり行わなければならないのだ。雑草を完全に取り除くには根まで引き抜かなければならないように、私たちの心を変えさせるためには罪の性質の根の根まで引き抜かなければならない。

ある人は熱心に祈って捨てたと思っていたのに、同じ心がまた見つかると失望して気を落としたりもする。罪の性質の根の根まで引き抜くまでは、前のような姿がまた出て来ることもある。だが、かといって霊的な発展がないのではない。玉ねぎの皮を一枚、二枚とむいても、またむくものが出て来る。しかし、続けてむいていけば、結局完全にむけるようなものだ。

まだ捨てられていないと失望せずに、完全に変えられる自分の姿を期待しながら、最後まで努力してみよう。たとえ目に見える実が現れなくても、信仰によって善と真理を行う時は、飽きるのではない。このように信仰によって心の割礼をしていくと、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康である祝福も臨むのだ。

第二、人に対する寛容

性格や学んだこと、教養の違う人と一緒にいると、互いに不満を持つようなことが起こる。ささいな問題から重大な問題まで、意見や考えが違って平和が壊れることがある。

しかし、聖めを慕う人はどんな状況でも、どんな人に対する時も、神の大切な子どもと思い、相手に合わせて平和をつくる。いつも良い心で相手を理解し、相手の利益を求め、寛容を尽くすのだ。それどころか相手が悪を行っても忍耐して、悪をもって報いないで、かえって善をもって悪に打ち勝つ。

伝道して訪問する時や信仰の働き人を育てる時も、寛容を尽くさなければならない。長い間真理のみことばを聞いても変化が遅い人であっても、まだ世と友になっている人であっても、涙を流して悲しみながら祈り、寛容に待たなければならない。このように寛容の種を蒔いていけば、必ず公義に従って実を得ることができる。

もし人が変えられるまで涙で祈って寛容を尽くすなら、彼らを抱ける大きい心になる。それで、多くの人にいのちを与える権威と力を得るようになるのだ。また、悔しいことにあっても、心を治めて寛容でいられるなら、神が祝福の実を刈り取るようになさる。

第三、神の答えを待つ寛容

神の御前に何かを祈り求めたとき、答えられるには待つ必要がある。<マルコ11:24>に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とある。

この他にも、聖書を読むと、神が子どもたちの祈りに必ずお答えになるという多くの約束がある。しかし、人のほうから待てないので、答えをいただけなくなることが多い。人はせっかちに答えを求めても、神はすぐに答えてくださらないこともある。神はすべてをご存じなので、最も適切な時に答えを下さるからだ。

また、祈祷課題が大きくて重要なことなら、それだけ祈りの量が満たされてこそ答えられる。農夫が農作業をする時も、一生懸命に育てて寛容を尽くして待たなければならない。あるものは数週間、数か月間でも刈り取るが、あるものは一年、あるいは数年かかってやっと実を得る場合もある。

本当に答えられるほどの信仰があるなら、その答えが実として手に握れる時まで変わらず祈って、信仰によって行うだろう。また、信仰生活をしながら心の訓練を受ける時や、神の働きをしていて迫害される時も、寛容を尽くしてこそ良い実を結ぶ。

十七歳でエジプトに奴隷として売られたヨセフは誠実を尽くして働いたが、濡れ衣を着せられて監獄に入れられた。それでも彼はいつも自分を見守っておられる神を信じ、結局は最も良いものを下さる神の愛を堅く信じたのだ。神はこのようなヨセフを祝福され、三十歳でエジプトの統治者としてお立てになった。

皆さんも、どんな訓練にあっても、答えてくださる信実な神を待ち望んで、忍耐を完全に働かせるように(ヤコブ1:2〜4)。その忍耐が信仰を成長させ、心をさらに広くて深く成熟させるからだ。このような忍耐を完全に働かせると、必ず神が約束なさった祝福と答えを皆さんの人生で体験できるのだ(ヘブル10:36)。

愛する聖徒の皆さん、
神は真実の子どもを得ようと千年を一日のように寛容を尽くして待たれ、ひとり子を渡す痛みに耐えられた。イエス様もその十字架の苦しみをものとされず、聖霊様も言いようもないうめきでこの耕作の歳月に寛容を尽くしておられる。このような神の愛を覚えて、完全に忍耐を働かせるように。それで、この地上でも時に応じて刈り取りの喜びを味わい(詩篇126:5〜6)、天国にある皆さんの家にも豊かな祝福の実があふれるほど満たされるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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