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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

親切の実

万民ニュース   第 161 号
3596
2016. 03. 27


堂会長イ・ジェロク牧師





「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)




御霊の九つの実の一つである親切の実を結べば、どんな人でも善をもって理解して愛をもって心に抱ける。たとえ大きい過ちがあったり、重い罪が明らかにされても、さばいて罪に定めるのではなく、憐れみの心が先んじる。罪は憎むが、何としてでもその人を理解していのちの道に導こうとする。このような親切の実について調べてみよう。


1. 親切の実とは?

辞書では「親切」とは「相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。また、そのさま。」と定義している。しかし、霊的な意味は、単に相手の身になって、その人のために尽くすことだけではない。「人としてはとうてい理解できない人も、真理にあって十分に理解する心」である。また「人としては赦せない人も、真理にあって十分に赦す心」なのだ。

神もこのような心で人の子らを憐れんでくださる。詩篇130篇3節に「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。」とある。このみことばのように、神が憐れみなしに公義に従ってだけさばかれるなら、神の御前に立てる人は誰もいない。

それで、神は私たちを赦して永遠の死から救い出すためにひとり子のいのちまで渡してくださった。神はすべての人が主を信じて救われるだけでなく、このような親切の心を持つことを望んでおられる。


2. 親切の実を結んだ人の特徴

第一に、偏見がない。

世の人は容貌だけを見てさばいて罪に定めたり、心構えや態度が変わってくることが多い。しかし、神の子どもたちは偏見なしにすべての人を自分よりすぐれた者と思って、主の心をもって仕えなければならない(ヤコブ2:1〜4)。

ひょっとして自分は富や名誉、容貌など肉的な面を見てさばかないとしても、霊的な面での偏見はないのか、チェックしなければならない。空気が読めなくてとんでもない話をしたり、主の教育から外れた行動をたびたびする人を見ると、無視したり遠ざけたりする心はなかっただろうか?

ある人は罪を犯して訓練を受けている人を見ると、まるで自分が裁判官になったかのように、罪に定めて陰口を言う。しかし、イエス様は姦淫した女が捕えられてきた時も「あなたがたのうちで 罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言って、限りない憐れみをもって赦してくださった。

このように霊的な親切の心があってこそ、神の御前で懲らしめられている人を見るとき、憐れんで、その人が頑張ってちゃんと通り抜けてほしいと願う。

第二に、困難にあっている人を憐れんで、喜んで施しをする。

親切の心が真実なら、物質の困難にあっている人を言葉だけで慰めるのではなく、何としてでも実質的に助ける。

<ヤコブ2:15〜17>に「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とある。

もし周りの誰かが飢えているなら「私も一食分しかないので仕方ない」と思うのではなく、自分に食べる物でもあれば分け与えるのだ。この他にも、どんな問題であれ苦しんでいる人を見れば、役に立ちたい、苦しみを減らしたいと思うのが親切の心である。

<箴言19:17>に「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」とある。主の心をもって人を顧みれば、必ず神は祝福をもって報いてくださるのだ。

第三に、相手を軽率に指摘しない。

親切の心があれば、懲らしめや叱責、指摘も簡単にはできない。一言指摘をしても、祈り心で相手の心を考えながら、注意深くする(箴言12:18)。

ある働き人は自分の義と枠から見て簡単に指摘する。しかし、それがいくら正しくても、愛がないならいのちを生むことができない。相手が指摘されて変えられるのではなく、まるで刃物で刺されるように心が傷ついてしまい、気を落としてがっくりくることもある。

だから、小さい子どもに対する時も、心を刺したり、過ちを掘り返して傷つけたり、つまずきを与えたりすることがあってはならない。どうしてもアドバイスをしなければならないなら、その人を大切に思う愛をもってするとき、相手が変えられるのだ。

第四に、すべての人に寛大である。

<ルカ6:32>に「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」とある。ほとんどの人は自分を愛する人には寛大に接する。しかし、何かの代価を得ようとする心を持たずに相手に与えるとき、親切の実を結ぶことができる。

イエス様はご自分を売り渡すイスカリオテ・ユダさえも愛して、悔い改める機会を与えられた。それどころか、ご自分を十字架につける人々のためにも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られた。このようにとうてい赦せない人も十分に赦せる心が親切である。

いやな人、性格や意見が合わない人がいるとしても、その人を心に抱くことができなければならない。まずは相手の立場で考えれば、感じを変えることができる。「あの人はいったいなんでああなのか。理解できない」とだけ思うなら、いくら努力しても相変わらずわだかまりが残り、心が穏やかでなくなるのだ。

しかし「あの人の立場ではああするしかなかったんだ!」と思うなら、いやだという感じを変えることができる。このように自分の義と枠を捨てて、思いと感じを善に変えていくと、心にある憎しみや悪い感情が一つ一つ捨てられて、誰でも心に抱いて良くしてあげることができるのだ。

第五に、相手に功を帰す。

霊的に親切の心があれば、よくやったことは相手の功にして、反対に失敗したことがあれば自分の過ちにする。自分のほうがよくやったのに、相手だけがほめられても、自分の事のように喜ぶ。「実は私のほうが頑張ったのに、あの人はこんな欠点があるのにほめられている」と面白くなくなることはない。かえって「あの人がほめられたから、これから自信も湧いてもっと頑張るだろう」と、相手の立場で感謝できるのだ。

子どものために犠牲になるお母さんの心を考えてみればすぐ理解できる。お母さんが手伝って子どもが賞をもらったとすれば「どうして私じゃなくてうちの子にだけ賞をくれるの」とつぶやくことはないだろう。このように親切の実が結ばれていると、誰でも自分よりその人を先に立たせて、功を帰すことができるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
霊的な「親切」とは、憐れみと愛の豊かな父なる神の属性である。親切だけでなく、他の御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制も、完全である神の心を分類したようなものである。したがって、御霊の九つの実を結ぶということは、結局、完全である神の心を私たちの中に耕して、完全でありなさいという意味なのだ。

御霊によって霊を生みながら御霊の実を完全に結び、毎日祝福の証しがあふれて、天国で太陽のように輝く栄光を味わわれるよう、主の御名によって祝福して祈る。


 

 

 
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