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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

人間を創造された神

万民ニュース   第 171 号
3184
2017. 01. 22


堂会長イ・ジェロク牧師



「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)



創世記1章を読むと、初めに神が六日間に天と地と万物と人を創造された過程がわかる。創世記2章を読めば、エデンの園を設けた後、人をそこに置かれたこともわかる。はたして神が人を創造された理由は何だろうか?


1. 聖なる神に似せて創造された人

<創世記2:7>に「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」とある。神は万物をことばで創造されたが、人は御手によって土地のちりで形造られた。五臓六腑とすべての組織に至るまで完璧に造って、いのちの息をその鼻に吹き込まれることによって、生きて動く「生きもの」になった。

ある人は「土地のちりで造った形がどうやって生きて動くのですか」と言って信じない。だが今日、人がロボットやコンピュータ、人工臓器や人工皮膚を作っているのに、どうして創造主の神が人をお造りになれないだろうか。人の思いの中で限界を作るから、神の力を信じられないのだ。

創造主の神はアダムとエバをお造りになった後、子孫が続くように彼らにいのちの種を下さった。つまり、男の精子と女の卵子の中には親のすべての気が結集していて、容貌はもちろん性格、知能、習慣などが似て生まれるようになるのだ。それなら、はたして人類の先祖アダムとエバは誰に似たのだろうか?

<創世記1:27>に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあるとおり、アダムとエバは聖なる神のかたちとして造られた。単に外見だけでなく、霊である神の子どもらしく、神と交わる霊を持つ存在として創造されたのだ。

そして、神が創造された最初の人アダムは聖なる神のように善と光、真理でだけ満たされていた。だが、エデンの園で生きているうちに、神が禁じられた善悪の知識の木の実を食べて罪を犯した後は、聖なる神のかたちを失ってしまった。


2. 神が人を創造して耕作しておられる理由

私たちが「なぜ生きるのか」という人生の目的を知るためには、神が「なぜ人間を造ってこの地上に耕作しておられるか」を悟ればよい。聖書を読むと、イエス様は人の心を四つの地にたとえておられる(マタイ13章)。また、麦と殻のたとえ(マタイ3章)や麦と毒麦のたとえ(マタイ13章)を通して、将来あるさばきについても説明しておられる。

神はこのようなたとえを通して、この地上に人を造って、人類の歴史を摂理のうちに進めていく過程がちょうど耕作のようなものであることを教えてくださっている。農夫が刈り入れのために地を耕作するように、神も私たちを耕作しておられるのである。

では、神はなぜ人を創造して、この地上で耕作しておられるのだろうか?それは神と愛を分かち合うまことの子どもを得るためである。創造主の神はさばきを行う方としての権威、厳格な公義などの神性的な面とともに、愛と憐れみ、慈しみなどの人性的な面がおありになる。人性を持っておられたので、神はひとりさびしくおられるより、愛し愛される対象を望まれた。創造主の神のそばには数多くの御使いと天の軍勢がいるが、心の芯から湧き上がる愛と自由意志をもって聞き従う、まことの子どもを望んでおられたのだ。

もし皆さんにどんなことでも言うことを聞くロボットと、時々問題は起すが心を分かち合える子どもがいるなら、どちらのほうが大切だろうか?いくら言うことをよく聞くロボットでも、心を分かち合える子どもに比べることはできない。このように自由意志をもって聞き従う子ども、心から愛を分かち合えるまことの子どもを得ようと、人を創造されたのである。


3. 麦と殻

農夫が最善を尽くして耕作しても、刈り入れの時は麦だけでなく、殻が混ざって出るものである。殻は食べることもできないし、麦とともに倉に収めれば麦まで食べられなくなるので、肥料に使うか、火で焼いてしまうしかない。

同じように、神も人間を耕作して、最後には麦と殻を分ける作業をなさる。<マタイ3:12>に「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」とある。ここで「消えない火」とは、地獄の火を意味している。

神が定めておかれた終わりの時になれば、人間耕作を締めくくって、この地上に生きていたすべての人をさばかれるようになる。この時、麦でなく殻になった人々は地獄の火に落ちるしかない。

麦とは、イエス・キリストを受け入れて、神を愛してみことばどおり生きていく人々で、まめに罪と悪を捨てて聖なる神のかたちを回復した人々のことである。反対に殻とは、神を信じないで、イエス・キリストを救い主として受け入れなかった人々のことである。

ここで重要なのは、教会に通っているからといって全部麦ではないということである。口では主を信じると言いながら、みことばどおり生きないで、世の欲を追って罪と悪の中で生きている人々も殻だということだ。それで、<マタイ7:21>に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とあるのだ。

神はすべての人がそのお心を知って、麦になって救われるのを望んでおられる(第一テモテ2:4)。それで、ひとり子イエス様まで十字架の死に渡してくださった。それでも主を救い主として受け入れず、相変わらず罪の中で生きている人々は、神のかたちとして造られた人としての真の価値を回復できない。

このような人は殻にすぎないので、麦になった人々と一緒に天国に入れることができないのだ。憎しみ、そねみなどあらゆる悪を持っている人々を天国に入れれば、美しい天国が汚染されてしまうからである。

それでは、天国に入れなかった人々は結局どうなるだろうか?人の霊と魂は永遠不滅なので消滅できない。だから、彼らも集めて永遠に地獄に閉じ込めておくのだ。殻になった人々はそれぞれの罪にしたがって、消えない火の中で永遠の刑罰を受けることになる(イ・ジェロク牧師『地獄』参照)。

愛する聖徒の皆さん、
主にあって信仰によって神に似せられた聖なるきよい心を持つ麦、すなわち、まことの子どもとして出て来て、栄えある天国で父なる神と愛を分かち合いながら永遠に生きていかれるよう、主の御名によって祈る。


 

 

 
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