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飼葉おけに寝かされたイエス様
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2017. 07. 23 |
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堂会長イ・ジェロク牧師
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11〜12)
イエス・キリストは神の御姿であって天地万物の主であられ、王の王、主の主なる方である(ピリピ2:6;黙19:16)。しかし、人となってこの地上に来られてみすぼらしい飼葉おけに寝かされ、貧しくなられた理由は何だろうか。
1. 神の御子であるイエス様が家畜小屋で生まれて飼葉おけに寝かされた理由
<ルカ2:1〜7>には、聖霊の力によってイエス様をみごもったおとめマリヤがヨセフと一緒にベツレヘムに住民登録のために行って、男の子を産んだ場面が記されている。
ところが、多くの人が押し寄せて泊まる宿屋が見つからず、家畜小屋で産んで、赤ちゃんを飼葉おけに寝かせなければならなかった。このようにイエス様が華やかな王宮でなく、みすぼらしい家畜小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされたことには神の大いなる摂理があるからだ。
<伝道者3:18>に「私は心の中で人の子らについて言った。『神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。』」とある。神のかたちに創造された人を獣に比べているのでおかしいと思うかもしれないが、人の悪を見れば、獣より劣っていることがどれほど多いだろうか。
万物の霊長と呼ばれる人が自分の欲望を満たそうと戦争を起こして数多くの人を殺すかと思えば、物質の欲のゆえに家族どうし争って告訴し、それどころか殺すことさえする。もともと神は善で聖なるご自身のかたちとして人を造られた。ところが、罪を犯したアダムによって人の主人である霊が死ぬようになったので、人はその本分を失ったまま世の欲と自分の欲に従って、あらゆる罪を犯しながら生きていく。
<ヨハネ6:51>を読むと、イエス様が「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」と言われた。ここで「天から下って来た生けるパン」を食べるとは、神のことばを心に糧とすることを意味する。
人の体が糧を食べてこそ生きられるように、人の霊も霊の糧を食べてこそ永遠に生きられる。神の御子として人となってこの地上に来られたイエス様が与えるいのちの糧を食べてこそ、人の本分を取り戻して、失った神のかたちを回復できるということである。まさにこのような神の摂理を教えてくださるために、神の御子イエス様が家畜小屋で生まれて、家畜の餌を入れておく飼葉おけに寝かされたのだ。
それなら、人がどうすれば獣と変わるところのない生き方から抜け出して、人の本分を取り戻せるだろうか。<伝道者12:13>に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とある。聖書に「しなさい、してはならない、守りなさい、避けなさい」とあるとおりに行うことがすなわち、神の命令を守ることであり、人の本分を取り戻す道である。
愛なる神は私たちをつらくさせようとこのような命令をなさったのではない。親が子を愛して「勉強しなさい」と言い、人の道理を教えるように、神もご自身の子どもたちが人の本分を尽くして祝福された生き方をするように教えてくださっているのだ。すべての人が救われることを望んでおられる神が永遠の天国に導くための細やかな愛の表現である。
2. 神の御子として富んでおられたイエス様が貧しい道を歩まれた理由
<マタイ8:20>に「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とあるとおり、神の御子であるイエス様は福音を宣べ伝えて多くの病人をいやされたが、決まった住みかもなかった。このように公生涯の間、数多くの奇蹟を行われたのに、イエス様があえて貧しくなられた理由は何だろうか。
<第二コリント8:9>に「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあるとおり、私たちに富む者となる祝福を下さるためである。
最初の人アダムがエデンの園で生きていた時は、すべてが豊かだったし、苦しんで食を得る必要がなかったが、アダムが罪を犯した後は、人とともに万物も呪われて、汗を流して耕作をしてこそ糧を得られるようになった(創3:17)。このようにすべての人が貧しくなるのは最初の人アダムが罪を犯したことによる呪いなので、イエス様が貧しさを贖おうと、ご自身が貧しい道を歩まれたのだ。
ある人は神に物質の祝福を求めることが間違っていると言ったりするが、聖書には神が私たちを富む者となるようになさるという数多くの祝福のみことばがある。信仰の父アブラハムをはじめとしてイサクやヤコブ、ヨセフなど、神を恐れてその御声に聞き従った昔の信仰の人々を見れば、豊かに生きたことがわかる。私たちも貧しさを贖ってくださった主の恵みの中に、富む者となる祝福を受けなければならない。もちろん、欲でなく施しと宣教、聖殿建築などの良いわざに使って、神の栄光のために求めるべきだろう。
愛なる神は子どもたちが信仰によって求めることは何でも与えたいと望んでおられるが(マタイ7:11)、何が何でも「祝福してください」と祈るからといって、受けられるのではない。たとえば、<第三ヨハネ1:2>に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」というみことばのように、すべての点でも幸いを得、また健康であるためには、たましいに幸いを得ていなければならない。ここで「たましいに幸いを得ている」とは、神のことばどおり行うことによって失った神のかたちを取り戻すことを意味する。
<申命記28:2>にも「あなたがあなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とある。このように神の御声に聞き従って生きている人だとしても、祝福されようとするなら、信仰によって種を蒔かなければならない。信仰が大きい人も、豊かに蒔くとき豊かに刈り取り、少しだけ蒔けば少しだけ刈り取るしかない(第二コリント9:6)。神が下さる祝福は押しつけ、揺すり入れ、あふれるまで、すなわち、倍以上であり、たましいに幸いを得ているほど三十倍、六十倍、あるいは百倍に報いてくださる。
ところで、ここで「豊かに蒔く者が豊かに刈り取る」ということは、単に金額や分量だけを意味するのではない。神はひとりひとりがどんな心で愛と信仰を持って蒔いたのか、その心の香をお受けになる。イエス様が、乏しい中から持っていた生活費の全部であるレプタ銅貨二つをささげた貧しいやもめをほめられたように、神は心とまことを尽くしてささげた心の香を喜んでお受けになるのだ。
愛する聖徒の皆さん、 神の御子であるイエス様をこの地上に遣わして家畜の飼葉おけに寝かせ、貧しくなるようにされた神の愛を悟って、イエス・キリストを受け入れて人の本分を取り戻し、救いと答えで神に栄光を帰すように、主の御名によって祈る。
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