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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

打ち傷を負って血を注ぎ出された摂理

万民ニュース   第 178 号
2860
2017. 08. 27


堂会長イ・ジェロク牧師



「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)






十字架の愛で人間の救いの道を開いてくださったイエス様は人となってこの地上に来られて、あらゆる苦しみにあわれた。それなら、イエス様が打ち傷を負って血を注ぎ出された摂理は何だろうか。


1. 打ち傷を負って血を注ぎ出されたイエス様

イエス様は残酷な十字架刑にあわれる前に、全身にむちを打たれて、骨が見えるほどひどい打ち傷を負って、多くの血を流された。がっしりしてよく訓練されたローマの兵士がむちを振り回せば、体に巻きついて、端についている鉛の塊が肉を破って体の中に食い込み、再びむちを手繰り寄せるとき、肉がくっついて落ちる、ぞっとする刑罰を受けられたのだ。
このようにイエス様が数えきれないほどむちで打たれて大きい苦しみを受けられ、血を注ぎ出された理由は何だろうか。<イザヤ53:5後半節>に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあるとおり、すべての病気の問題を解決してくださるためだった。
<マタイ9:2>で、イエス様は中風の人をいやす前に「あなたの罪は赦された」と言われる。<ヨハネ5:14>には「・・・見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と言われ、悔い改めて罪が赦されていやされたとしても、再び罪の中に生きれば、以前よりもっと悪い事が身に起こるということを教えてくださる。
このように病気の根源は罪によるものであり、血を注ぎ出すことがあってこそ罪が赦されるので(ヘブル9:22)、イエス様が何の罪もなく打ち傷を負って血を注ぎ出してくださったのだ。


2. 打ち傷を負われたイエス様を心に信じて口で告白してこそ

<第一ペテロ2:24>に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあるとおり、イエス様が打ち傷を負われて血を注ぎ出されたことを心に信じる人はこれ以上わずらいや病気で苦しむ理由がない(マタイ8:17)。
時々「私は弱くて罪を犯す時もあって、完全にみことばどおり生きることは大変だ」と言う人々がいる。<箴言18:21>に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とある。いやしの主を信じる人はどんな状況でも「神様の恵みによって健康で、聖霊に満たされている」と告白する。そうする時、神の恵みが臨んで強くされ、疲労にも十分に打ち勝って、不可能が可能に変わるのだ。
私たちがいやされようと祈りを受ける時も「祈りを受けたから良くなると信じます」でなく「もう良くなったと信じます」と告白するとき、神が信仰のとおり働いてくださる。ある人は「相変わらず痛いのに、良くなったと言うのは嘘ではないですか」と質問することもあるだろう。しかし、霊の信仰が何か知っているならば、答えがわかる。
<ヘブル11:1>に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあるとおり、信仰は目に見えないものを信じて望むとき、目に見えるようになるのである。そうかといって、心に信じられもしないのに、口先でだけ信じますと告白しなさい、と言っているのではない。心に信じられる信仰を口で告白するとき、確かなものとして現れる、ということである。
「神の力で病気とわずらいが離れた」と心で信じて口で告白すれば、その信仰のとおりいやしの主が創造主なる神の力で働いてくださる。しかし、いやしの主を信じられなければ、心で「まだ良くなっていない」と思っているから相変わらず痛いのであり、否定的な思いによって神のみわざを体験できないのだ。


3. 打ち傷を負われたイエス様を信じると言いながらもいやされない理由

それでは、イエス様が打ち傷を負って病気を贖ってくださったことを信じると言いながらも、相変わらず病気で苦しんでいる理由は何だろうか。いくら心に信じて口で告白するとしても、神の義を追い求めないならば、いやされることができないからである。
<出エジプト15:26>に「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。』」とある。
ここでエジプトとは霊的に「世」のことを言い、出エジプト当時、エジプトに下ったすべての病気は「世のすべての病気」を総称している。誰でもみことばをよく聞いて「神が正しいと見られること」を行って「神の命令」を守り行えば、どんな病気にもかからない。ひょっとして病気にかかったとしても、悔い改めて立ち返れば、いやしてくださるのである。
ただし、自分が正しいと見ることを行うのではなく、神が正しいと見られることを行わなければならない。ところが、人によってその正しいことが違う。生まれて育ちながら見て聞いて学んだことが違い、育ってきた環境と価値観が違うからである。Aという人が正しいと思うことがBという人のほうでは正しくないこともある。したがって、真理そのものであられる神のことばを基準とすべきであり、神が正しいと言われたことがまことに正しいのである。
たとえば、外で遊んでいた子がたたかれて家に入って来れば、ある親はしゃくに障って相手の子の家に行って問い詰めたりもする。しかし、神が正しいと見られることは「右の頬を打たれれば左の頬も向けなさい。平和を追い求めなさい。敵をも愛しなさい」ということである。神が正しいと見られることを追い求めれば、当座は損をするようでも、結局は神が認めて高くしてくださる。
ある人は「神様の命令をどうやって全部守るのですか」と言うが、神の命令を守り行うのは決して難しいことではない。「助け主聖霊様が助けてくださって、神様が恵みを下さって強くしてくださるから、十分できる」と信じて行えば、信仰のとおりに働いてくださる。神を愛して天国の栄光と報いに目を向けるならば、十分に命令を守ることができるのだ。
もし「私は捨てなければならない罪があまりにも多いのに、いつ全部捨てるのだろうか」と思うならば、一番捨てるのが難しい罪を集中的に祈りながら断食して捨てるように。まるで大きい根を引き抜けばひげ根も一度に抜けるように、残りの罪も簡単に捨てることができる。このように罪を捨てて闇から出て来て光の中を歩めば、神との間を隔てている罪の壁が壊され、信じられる信仰が臨んで神のみわざを体験できる。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様が打ち傷を負って血を注ぎ出されたことによってすべての病気とわずらいを贖ってくださった。もういやしの主を見つけたので、すべての病気が完全にいやされることはもちろん、神の命令を熱心に守って行うように。そして、不可能のない神にすべての事についてより頼んで思う存分栄光を帰されるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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