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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

いばらの冠をかぶられた摂理

万民ニュース   第 179 号
2998
2017. 09. 24


堂会長イ・ジェロク牧師



「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、」 (マルコ15:16-17)



イエス様は罪人となった人類を救うためにこの地上に来られ、まことに多くの苦しみにあわれた。これについて具体的に知れば、神の愛を深く悟って熱い信仰生活ができる。はたしてイエス様がいばらの冠をかぶられた摂理は何だろうか。


1. イエス様がいばらの冠をかぶって血を流された理由

神の御子であるイエス様は栄えある冠をかぶるのにまことにふさわしいお方である。しかし、十字架の苦しみにあいながら、鋭いいばらの冠をかぶらなければならなかった。長くてきついとげがイエス様の頭に食い込むと、肉が裂ける苦しみとともに顔は血で染まった。このようにいばらの冠をかぶって血を流された理由は、人の思いで犯す罪を赦してくださるためである。

人の頭には知識を入れて活用できる記憶装置がある。人が生まれてから見て聞いて学んだことが感じとともに入力されるが、これがまさに知識である。人によって成長した環境と学んだことが違い、同じ環境で同じ人に教えを受けても、各自がどんな感じで受け入れたかによってその価値観と善悪を判断する基準も違ってくる。

このように知識が必要に応じて再生して出て来るものを「思い」と言うが、人ごとに知識が違うので、同じ場面を見ても違うように思う。それで、ある国では教養ある行動が他の国では礼を欠いた行動になったりもする。また、サタンが人々の思いを支配するので、真理と合わないことがほとんどである。

たとえば、誰かがほめられれば、サタンは心にある真理でないものに働きかけて、不満を持ったり気を落としたりさせる。しかし、真理の知識だけがあれば、サタンが思いを支配できないので、真理を喜ぶことができる。それで、みことばをまめに聞いて糧とし、霊とまことによって礼拝をささげて、ただ「はい」と「アーメン」と言って心に受け入れ、自分を変えさせていかなければならない。


2. 思いで犯す罪を根本的に捨てて御霊による思いをするには

みことばを聞いて自分の思いに合えば「アーメン」と信じる。しかし、自分の知識と経験に合わなければ、信じられず、そのみこころと反対になることを思うこともある。たとえば、イエス様が神の摂理のうちに多くの苦しみを受けて殺された後、三日目によみがえることを弟子たちに教えられると、ペテロが「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言う。この時、イエス様はペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)と言って叱られる。これは師を愛するようだが、実は神に対して反抗する肉の思いだからだ。

このように神のみこころと反対になる思いを「肉の思い」と言う。肉的には賢くて良いと思えるが、サタンが与える思いなので、神に対して反抗し、神と全く関わりがない。<ローマ8:7>に「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあるとおりである。したがって、みことばを信じないようにして、聞き従えなくする肉の思いを捨てるためには、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させなければならない(第二コリント10:5)。

私は神を見つけた後、聖書に記された神のみことばを疑ったことがない。私の病気を直してくださった神の力を体験したので、神のみことばを完全に信じて、その命令どおりに行った。また、神の全能であられることを信じたので、どんな状況でもただ祈りで神だけにより頼むと、驚くべきみわざを施してくださった。肉の思いを巡らせないで神にだけより頼めば、必ず働いてくださる。

それなら、私たちが主を信じて罪を赦された後、思いで犯す罪を根本的に捨てるためには、どうしなければならないだろうか。心をきよくしなければならない。<第一ヨハネ2:16>に「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」とある。

心に悪があって、世を追い求める属性がぎっしりあるなら、肉の思いが浮び上がるものだ。肉の欲があれば、世にあるものを追い求めて手に入れ、肉の欲がさらに深くなれば、肉の行いをしたくなる(ガラテヤ5:19〜21)。目の欲とは「目で見て耳で聞くことを通して心が揺れ動き、肉に属するものを追求させる属性」である。このような目の欲のために人々はさらに世的で情欲的なものを追求していく。暮らし向きの自慢とは「現実のすべて享楽を追い求めて、自分を目立たせるために自慢しようとする属性」である。これによって高められて認められようとし、名誉と権威などを手に入れようとするのだ。

このような肉の欲と目の欲、暮らし向きの自慢を捨ててこそ、根本的に心がきよくなり、神が喜ばれる御霊による思いができる。


3. 将来天国で美しい冠をかぶれるように備えられた神

イエス様がいばらの冠をかぶって血を流してくださったので、誰でも思いで犯した罪を赦されて、将来天国で美しい冠をかぶれる道が開かれた。この地上でどんな生き方をしたかによって、いろいろな冠が用意されている。

たとえば、主を受け入れて真理を聞いて罪と戦って捨てようと努力した人には「朽ちない冠」(第一コリント9:25)、罪と戦って捨ててみことばどおり生きながら神に栄光を帰した人には「栄光の冠」(第一ペテロ5:4)、神を愛して死に至るまで忠実であり、悪はどんな悪でも避けて聖められた人には「いのちの冠」(ヤコブ1:12;黙示録2:10)などが与えられる。また、完全に聖められて神に喜ばれる信仰によって使命を立派に果たした人は「義の栄冠」(第二テモテ4:8)を受けることができる。

<黙示録4:4>には「金の冠」が記されているが、これは完全に聖められて全家を通じて忠実であり、永遠に変わらない純金のような信仰を持った人々に与えられる。愛なる神はどれほど聖められて忠実であったかによって、それぞれ違う冠を報いとして備えておられるのだ。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様はいばらの冠をかぶって血を流されることによって人が思いで犯す罪を贖ってくださった。将来、私たちが天国で美しい冠をかぶれるように備えておられる。神に対して反抗する肉の思いを徹底的に打ち砕いて、御霊による思いをして完全に聞き従い、天国で太陽のように輝く栄光を受けられるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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