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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

手と足に釘を打たれた理由

万民ニュース   第 181 号
3462
2017. 11. 26


堂会長イ・ジェロク牧師


「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。・・・」(イザヤ53:5)



イエス様が十字架の苦しみにあわれたことは罪人となった人類を救うための神の摂理にあってなされた。それでは、手と足に釘を打たれた理由は何だろうか。


1. イエス様が手と足に釘を打たれた理由

十字架刑は一般的な死刑法と違い、長時間にかけて極度の苦しみを受ける。大きい木の十字架の上に両手と両足を釘づけた後、十字架を立てれば、体重が下へかかって、釘を打たれた所にさらにひどい苦しみが加えられる。しかも急所を避けて釘を打つので、ずっと血を流しながら息が絶える瞬間まで苦しみを受けなければならないのだ。実に最もむごたらしい死刑法である。
それでは、イエス様が手と足に釘を打たれた理由は何だろうか。これはまさに人が手と足で犯したすべての罪を贖ってくださるための摂理だった。<マルコ9:43〜45>に「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」とある。それで、イエス様が両手と両足に釘を打たれて血を注ぎ出されたことによって、私たちが手と足で犯す罪を贖ってくださったのだ。
誰でもイエス様を救い主として受け入れれば、罪を犯した手と足を切らなくても、悔い改めれば赦されることができるし、さらに聖霊によって強くされて罪を捨てることができる。このように私たちが信仰によって罪が赦されて地獄の火に投げ込まれないように、イエス様が残酷な十字架の苦しみをご自身で引き受けられたのだ。
ところが、口ではイエス様を信じる、罪を悔い改めると言いながらも、相変わらず罪の中で生きていく人々がいる。<第一ヨハネ1:6>に「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」とある。したがって、イエス様が私たちの罪のゆえに手と足に釘を打たれて血を注ぎ出され、苦しみを受けられたことを本当に信じるならば、再び手と足で罪を犯してはならないのだ。


2. 信じてすべての律法の呪いから解放されるには光の中を歩んでこそ

イエス様が何の罪もなく木の十字架にかけられて死なれたので、誰でもこれを信じれば罪が赦され、すべての律法の呪いから解放されることができる。イエス様を救い主と信じて受け入れることで病気とわずらい、貧しさ、その他のあらゆる災いから解き放たれるようになったのだ。
したがって、主を受け入れて、神のことばどおり生きている聖徒はいつも守られることができる。もし神のことばどおり生きているのに試練、患難がやって来たとすれば、これは祝福のための試練である。<ヤコブ1:12>に「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるから」とあるとおり、感謝して勝利すれば、霊肉ともに祝福が臨むようになる。
反対に、神のことばどおり生きられなくて試練、患難がやって来た場合には、直ちに悔い改めて立ち返らなければならない。まず罪の隔ての壁を壊して、信仰によって祈れば、試練、患難は離れるしかない。人のミスで困難がやって来た場合も、神により頼めば、信仰のとおりに働いてくださる。このようにイエス様が十字架にかけられて呪いを受けられたので、誰でも信仰によって罪が赦され、すべての律法の呪いから解放されたのだ。
それでは、私たちが「主よ、信じます」と告白するだけで、無条件に罪が赦されるのだろうか。<第一ヨハネ1:7>に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるとおり「光の中を歩んでいるなら」という但し書きがついている。聖書のどこにも「私たちが罪を犯しても救われる」というみことばはない。
<マタイ7:21>に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とある。だから、イエス様を救い主として受け入れて、罪を悔い改めて再び罪を犯さないために努力し、光の中を歩んでこそ、罪が赦されて完全な救いに至るようになる。


3. 十字架につけられたふたりの強盗についての記述が違う理由

イエス様が十字架刑にあわれたとき、多くの群衆がイエス様をののしってあざけっていた。また、イエス様の十字架の両側には、ふたりの強盗がつけられている十字架も立っていた。
ところで、<マタイ27:44>に「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」とある。これとは違い、<ルカ23:39〜43>には、ひとりはイエス様に悪口を言ったが、もうひとりはイエス様に悪口を言っている彼をたしなめたと記されている。
それでは、聖書の記述が間違っているのだろうか。そうではない。これは聖書を読む後世の人々がその当時の場面をさらに実感できるように神が働かれたのだ。ゴルゴタの丘の上に三本の十字架が立っているが、その周りには十字架刑を見物しようとする多くの群衆が集まって騒がしく、ローマの兵士は槍と盾を持って押し寄せる群衆を防いでいる場面を一度想像してみるように。
このような状況でイエス様に悪口を言っている強盗の側に立っていれば、その言葉ははっきり聞こえるが、反対側の強盗の言葉はよく聞こえない。だから、悔い改めた強盗がイエス様に悪口を言う強盗に向かってたしなめている姿が、遠くから見るとまるで彼がイエス様に向かって悪口を言っているように見えることもあるだろう。しかし、悔い改めた強盗の側やイエス様の側にいる人は強盗の言葉とイエス様の言葉が聞き取れたので、正確に記録を残したのだ。
もちろん、全知全能の神が記者に正確な内容を知らせてくださって記録させることはおできになる。しかし、記述に違いがあるようにされることによって、御霊に感じて聖書を読む人々は、まるで映画のフィルムが回るように生き生きした臨場感をもって当時展開された状況をはっきり感じられるように働かれたのだ。
したがって、聖書を読むとき、人の思いに合わない分野があるなら、さばくのではなく、その中に込められた霊的な意味を御霊によって悟ろうと努力しなければならない。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様が手と足に釘を打たれた理由を知ったので、それを信じることによって罪が赦され、悔い改めにふさわしい実を結ばなければならない。救い主の愛が込められた良い知らせを伝える手と足になって、御霊によってみことばを悟り、神の子どもとされた特権と祝福を思う存分受けられるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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