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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

イエス様の十字架上の七つのことば(1)

万民ニュース   第 183 号
2758
2018. 01. 28


堂会長イ・ジェロク牧師


父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか 自分でわからないのです。」「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともに パラダイスにいます。」(ルカ23:34,43)




イエス様が木の十字架にかけられて死なれたとき、遺言のように言われたことがある。ただ神のみこころに従って、人間の救いの道を完成する時点で、最後に残されたイエス様の十字架上の七つのことばの第一、二のことばに込められた霊的な意味を調べてみよう。


第一のことば「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

神の御子であるイエス様が残酷な十字架刑にあわれたのは人類の罪のゆえだった。死の刑罰を受けるべき罪人となった人類に代わって、すべての苦しみにあわれたのだ。このようなことを知らなかったローマ軍の兵士とイスラエルの民は十字架につけられたイエス様をまるで凶悪な罪人であるかのようにさげすんであざけった。

しかし、イエス様は黙々と十字架の苦しみにあわれただけでなく、かえって彼らの罪を赦してくださいというとりなしの祈りをささげられた。イエス様を十字架につけてあざける人々のために、一歩進んで、闇の中にとどまっているすべての人類のための祈りだった。このようなイエス様の愛の求めのゆえに今日、数えきれないほどの人が救われるようになったのだ。

何の罪もなく十字架につけられて罪人のために愛をもって祈られたイエス様は、主を信じる神の子どもたちも、すべての人を愛して赦すことを望んでおられる。それで、主の祈りも「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈るように教えられた。また、私たちが不当に迫害されても、悪をもって対抗したり、わだかまりを抱いたりせず、ただ善をもって対することを望んでおられる(マタイ5:44〜45)。

したがって、救われた神の子どもたちは、ご自分を十字架につけてあざける罪人をも愛されたイエス様を見習わなければならない。主にあって兄弟を愛することはもちろん、敵をも赦して愛さなければならないのだ。


第二のことば「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

イエス様の左右には十字架刑を受けているふたりの強盗がいた。ひとりの強盗はイエス様をあざけったが、反対側の強盗はむしろ彼をたしなめた。そして「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とお願いする。するとイエス様はその信仰をご覧になって「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束なさった。このみことばの中には多くの霊的な意味が込められている。

まず、天国の場所「パラダイス」について教えてくださったということだ。使徒パウロは「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた」と言った(第二コリント12:2-4)。その他にも、聖書のあちこちには「天と、天の天」「天の天」などの表現が出て来るので、天がいくつかあることがわかる(第一列王8:27;ネヘミヤ9:6;申命記10:14)。私たちの目に見える肉の天の他にも、霊の世界の天がある。

第三の天、すなわち、天国がある空間には、使徒パウロが引き上げられたパラダイスがあるかと思えば、新しいエルサレムなど、いくつかの場所に分けられている。新しいエルサレム(黙示録21:10〜11)は天国でも最も上の段階の天国であり、主のかたちに似せられて、すべての罪と悪を完全に脱ぎ捨てて、全家を通じて忠実であった人々が入れる所である。

十字架につけられて救われた強盗は死ぬ直前に主を受け入れた。だから、心の罪と悪を捨てる時間もなかったし、主のために忠実に仕えたのでもなく、かろうじて救いの資格を得ただけだった。このような人々はパラダイスに行くようになるが、そこは天国でも最も低い場所である。パラダイスと新しいエルサレムの間にも、天国はいくつかの段階に分けられていて、各人の聖められた程度と信仰と忠実度に応じて、とどまる場所が変わってくる。

このように天国が分けられていることは、種を蒔けば、その刈り取りもするようになさり、行いに応じて報いをお与えになる神の公義である。つまり、この地上で私たちがどれほど罪を捨てて、聖なる主のかたちに似せられたかによって、天国の場所が変わるのだ。それぞれの場所によって栄光と報い、幸せと権勢が違ってくる。それで、<第一コリント15:41>に「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」とあるのだ。

本当に信仰があれば、何としてでもよりすばらしい天国に入ることを慕わなければならない。<マタイ11:12>に「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とあるとおり、罪を捨てて主に似せられたほど、よりすばらしい天国を攻めて入れるのだ。

仮に皆さんの中に、ねたみ、そねみ、さばき、罪に定める、憎しみ、裏切り、悪賢さ、欲、憤り、姦淫など、このような罪をそのまま持って天国に入る人がいるならば、天国はこれ以上聖なる幸せな場所とは言えないだろう。それで、天国には罪と悪を持って行くことができず、善と御霊によって変えられたものだけ持って行く。また、その信仰の量りが似ている人どうし同じ場所に集まって暮らす。この地上でも同じ年頃の人たちと一緒にいるともっと楽しいように、天国でも似た水準の信仰を持っている人々が一緒に暮らすので、さらに安らかで幸せなのだ。

次に、イエス様が「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたことは、強盗と一緒に天国のパラダイスにとどまられるという意味ではない。復活、昇天された主イエス様は天国の主として神の御座がある新しいエルサレムにおられるが、天国全体を統治しておられるので、このように言われたのだ。

「きょう」と言われたのも、十字架につけられたまさにその日を意味するのではなく、救われた時点から彼がどこにいても主がともにおられる、という意味である。したがって、私たちも主を受け入れて救われれば、その日から主が私たちを覚えておられ、ともにおられるのである。

それでは、十字架で死なれた後、イエス様はどこへ行かれたのだろうか。これについて聖書には「人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」とあり(マタイ12:40)、「彼(訳注・キリスト)がまず地の低い所に下られた」と説明されている(エペソ4:9)。また「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」と記されている(第一ペテロ3:19)。イエス様は十字架で死なれたその日、捕らわれの霊たちのところに行って、福音を語られた。ここで「捕らわれの霊たち」とは、イエス様が十字架を負って救い主になられる前に死んだ人々の中で、救いを受けることのできる人々のことを意味している。


愛する聖徒の皆さん、
イエス様は十字架につけられて死なれる瞬間まで、すべての人類のために愛の求めをして、信仰を見せた強盗には天国への希望を与えてくださった。十字架の愛によって、救いはもちろん、天国を攻めて行く幸いな聖徒になられるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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