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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

イエス様の十字架上の七つのことば(2)

万民ニュース   第 184 号
2398
2018. 02. 25


堂会長イ・ジェロク牧師


「イエスは、・・・母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。・・・」 (ヨハネの福音書19:26〜27)



人々は一生を生きて最後に残した遺言を非常に大切に思う。いくら親不孝で放蕩に生きていた子どもも、親の遺言には何としてでも従おうとする。

それでは、イエス様が木の十字架にかけられて死なれる前、最後の力を尽くして残されたみことばは何だろうか。今回は十字架上の七つのことばのうち、第三のことばについて伝える。


1.「女の方。そこに、あなたの息子がいます」

<ヨハネ19:26>に「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。」とある。ここで「息子」とは、そばに立っている愛する弟子ヨハネを指すのであって、イエス様はおとめマリヤにヨハネを息子のように思いなさいと言われている。

それでは、イエス様がおとめマリヤに「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた理由は何だろうか。聖書には、イエス様がおとめマリヤを「母」と呼ばれた記述が全くない。「母」という表現はヨハネの福音書を記した弟子ヨハネの立場で使ったのであって、イエス様の立場で言われたのではない。

ヨハネの福音書2章にはイエス様が水でぶどう酒をお作りになった出来事が記されている。この時もイエス様はおとめマリヤを「女の方」と呼ばれた。イエス様は神の御姿であって(ピリピ2:6)、御子の神であるのに、どうして母がありえるだろうか。

神は永遠の昔からとこしえまで「わたしは、『わたしはある』という」方で(出エジプト3:14)、誰かが神を産んだり作り出したりできない。したがって、神の御姿であるイエス様が被造物であるおとめマリヤを「母」と呼ぶことができないのだ。

しかもおとめマリヤは遺伝的にもイエス様の母になれない。イエス様は聖霊によって宿られた方だからだ。もしある女性の体を借りて人工受精によって生まれた赤ちゃんがいるなら、その女性をお母さんと呼ばない。また、未熟児がしばらく保育器の中で育ったからといって、保育器をお母さんとは呼ばないだろう。このように、イエス様がおとめマリヤの体を借りてこの地上に来られたからといって、母と呼ぶことはできないのだ。

それでもおとめマリヤをイエス様の母として仕え、偶像のように拝むなら、神が決して喜ばれない。<出エジプト20:3〜4>に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・どんな形をも造ってはならない。」とあるとおり、神のほかにどんな被造物の形でも造って拝むことがあってはならない。

また、イエス様が「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われたのは、おとめマリヤを慰めるためである。細やかなイエス様は十字架につけられているご自分を見て、まるで刃物で心を刺されるような苦しみを感じているマリヤを覚えて、最後の瞬間まで慰められ、弟子ヨハネを実の息子のように頼るようになさったのだ。


2.「そこに、あなたの母がいます」

<ヨハネ19:27>を読めば「それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」とある。それでヨハネはイエス様のおことばどおりおとめマリヤを自分の家に迎えて、実の母のように仕えて生きるようになる。マリヤは処女としてイエス様を産んだ後、夫ヨセフとの間に幾人かの子どもを産んだ。しかし、イエス様はマリヤの子どもたちに頼まないで、弟子ヨハネに頼まれた。

ここで私たちが確かに悟るべきことは何だろうか。<ピリピ3:20>に「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあるとおり、救われた神の子どもたちは天に属する人であるということなのだ。主を受け入れて、天国のいのちの書に名が記された神の子どもたちは、神を父として仕える霊的な家族である。

私たちは肉の両親を通してこの地上に生まれたが、両親の精子と卵子も神が下さったのであって、遡れば人類の先祖であるアダムのいのちも神から来た。神がアダムを形造っていのちの息を吹き込まれたので、根本的に私たちのいのちは神から来たのだ。また、人が結婚して子どもを産むとしても、神の許しがなければいのちをみごもることもできず、胎に宿った赤ちゃんに霊を下さるのも神の所管だからだ。

今日、科学が発達して、クローン人間に関する論議が多いが、いくら遺伝工学が発達しても、人の霊を作り出すことはできない。たとえ人の肉は複製できるとしても、神と交わる霊がないから動物と変わらず、まことの人と言えないだろう。しかもみごもった赤ちゃんの性別や性分、容貌なども親の願いどおりにすることができない。

このように、ただ神だけが人のいのちをつかさどることがおできになるのである。人に霊を下さって生死禍福をつかさどられる方も神であり、このような神が私たちの霊的な父であられる。もし神を信じないで世の情欲に従って生きていくなら、これは悪魔の子どもであるから、神を「父」と呼ぶことができない(ヨハネ8:44)

だから、この地上で互いに血縁関係で結ばれた家族だとしても、主を信じない家族は天国で永遠にともにいられるのではない。イエス様も「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われ、まことの家族、霊的な家族について教えてくださった(マタイ12:50)。

肉の家族を愛して仕えるが、神の御前にふさわしい霊の愛で愛さなければならない。もし神をそしって神のみこころと反するようなことをする家族に合わせるなら、それはまことの愛ではないからだ。

たとえば、肉の親や兄弟が「教会に行くな」「罪を一緒に犯そう」と言うが、それに合わせるならば、これは愛でもなく、むしろ一緒に死へ向かうことである。だから、必ず真理にあって愛して仕えなければならない。また、本当に家族を愛するなら、何より一緒に救われて天国に行けるように伝道しなければならないだろう。それで、永遠の天国でともに生きる、まことの霊的な家族になるべきだろう。


愛する聖徒の皆さん、
十字架上の七つのことばの第三のことばには、十字架につけられたイエス様を見て悲しんでいるマリヤの心を慰めようとされるイエス様の愛が込められている。また、主にあっての兄弟姉妹がまことの家族だということを知らせてくださったので、さらに神を愛し、主にあって霊の愛を分かち合われるように、主の御名によって祈る。



 

 

 
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