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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

十字架の道シリーズ(12) - いやしの主

万民ニュース   第 49 号
7469
2007. 2. 25


「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)


神様がまことの子どもを得るために施されたすべての摂理のうちで、最も重要なことはまさに、イエス様が人となってこの地上に来られて、あらゆる苦しみにあわれ、十字架で処刑され、人間の救いの道を完成されたことです。きょうはそのうち、イエス様がむちに打たれて、血を注ぎ出された摂理について調べてみます。

1.イエス様がむちに打たれて、血を注ぎ出された摂理

神様の摂理のうちに、イエス様はユダヤ人たちの手に捕らえられ、総督ピラトの法廷に渡されてむち打たれ、十字架につけられました。十字架の処刑も残酷ですが、むちに打たれたことも決して軽い刑罰ではありませんでした。よく訓練されたローマの兵士がむちを打つと、からだを一回り半して肌を切り裂き、むちの先についている鉛のかたまりがからだの中に打ち込まれます。またむちをひっぱると肉がはがれていきます。このようにイエス様は骨が見えるほどひどい傷を負って、多くの血を注ぎ出されました。
それでは、イエス様はなぜむちに打たれてひどい苦しみを受け、血を注ぎ出さなければならなかったのでしょうか? イザヤ書53章5節に「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあるとおり、イエス様がむちに打たれて血を注ぎ出されたことは、私たちが様々な病気からいやされるためです。
出エジプト記15章26節に、私たちが戒めを守って罪を犯さなければ、どんな病気も臨まないとありますから、病気がいやされるためには、まず罪が赦されなければなりません。マタイの福音書9章2節で「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われたとおり、イエス様は病人をいやされる前に、まず罪の問題を解決してくださいました。
また、ヨハネの福音書5章14節では「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と言われました。悔い改めて罪が赦され、いやされたとしても、また罪の中で生きれば、以前よりもっと悪い事が起こるのです。したがって、病気の根源は罪によるのであり、その病気を贖うためには血を注ぎ出さなければならなかったので、イエス様がむちに打たれて、血を注ぎ出され、私たちをすべての病気の苦しみから自由にしてくださったのです。

2.いやしの主に出会うには

第一ペテロ2:24に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。それで、イエス様がむちに打たれて血を注ぎ出されたため、自分の病気が贖われたことを信じる人は、これ以上わずらいや病気で苦しむ理由がありません(マタイ8:17)。
時々「私は弱いので罪を犯す時もある。人が完全に神様のみことばどおり生きることは難しい」と言う人もいますが、自ら「私は弱い」と言えば弱くならざるをえないし、「罪を捨てるのが難しい」と言えば信仰生活が難しくなるしかないのです。箴言18章21節に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあるためです。
どんな状況でも「私は神様の恵みで健康です。満たされています」と告白する時は、信仰の告白のとおり神様の恵みと力が臨んで、疲れにも十分に勝てて、不可能が可能に変わるのです。私たちがいやされようと祈りを受ける時も、「祈りを受けたので、いやされると信じます」ではなく、「すでにいやされたと信じます」と告白するとき、神様が信仰のとおり働いてくださいます。
ある人は「相変わらず具合が悪いのに、どうしていやされたと言うのですか? それでは嘘ではないのですか?」と質問しますが、霊的な信仰が何であるのかがわかったら理解できるでしょう。ヘブル人への手紙11章1節の「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」というみことばのように、信仰はすでになされたことを見て告白するものではなく、見えないものを信じて望むとき、実状として現れるものです。
かと言って、心から信じられないのに口だけ「信じます」と言うとしても、そのままなされるのではありません。心から真実に信じられる信仰を口で告白するとき、実状として現れるのです。
病気の問題も同じです。「神様の力で病気とわずらいが私から離れた」と心で信じて口で告白すれば、その信仰のとおり主が働いてくださいます。イエス様がわずらいと病気を贖うためにむちに打たれ、血を注ぎ出してくださったためです。
ところが、これが信じられなくて信仰で告白することもできなければ、相変わらず病気が離れません。祈りを受けても、自分の心では「私は具合が悪い。まだいやされていなかった」と信じると、相変わらず具合が悪いのです。このような否定的な思いを打ち壊さない限り、神様のみわざが体験できないのです。
創造主の神様の御力はいやしのみわざだけでなく、創造のみわざ自体を施されます。どんな病気や不自由なからだでも、十分に治されます。特にリバイバル聖会や海外連合大聖会の時は、一度に数え切れないほどの人々がいやされて、証しします。講壇からの祈りを受けるだけも、ガンやエイズをはじめ、あらゆる難病、不治の病がいやされて、目の見えない人、話せない人、聞こえない人、歩けない人などのわずらいがいやされ、時には賛美中でも、メッセージを聞いているうちでも、いやしのみわざが臨む場合がよくあります。

3.信じると言いながらもいやされない理由

イエス様がむちに打たれて病気を贖ってくださったことを信じると言いながらも、相変わらず病気で苦しむ理由は、神様の義を求めなかったためです。
出エジプト記15章26節に「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」とあります。ここで「エジプト」とは霊的に「世」を言い、エジプトを出た当時、エジプトに下された十の災いとは、世のすべての病気を総称しているのです。
ですから、私たちが神様の戒めを守り行えば、どんな病気にもかからないし、もし病気にかかったとしても、悔い改めて立ち返れば、「わたしはあなたをいやす者である。」とおっしゃられたとおり、全能の父なる神様が十分にいやしてくださるのです。しかし、自分が見ての義を行うのではなく、神様の義を行わなければなりません。
人それぞれの義が違うのは、すべての人が生まれて育ちながら見聞きして習ったことが違い、育った環境と価値観が違うためです。この人が「義だ」と言うことでも、あの人は「不義だ」と言うこともあります。真理自体であられる神様のみことばを基準として、神様が義と言われたことだけが、まことに義であるのです。
たとえば、子どもがたたかれて帰って来れば、ある親は気に障って相手のところへ行き、問い詰めたりします。しかし、真理である神様の義は「右の頬を打たれれば左の頬も向けなさい。平和を追い求めなさい、敵まで愛しなさい。」ということです。神様の義を追い求めるとき、すぐには損害をこうむるようでも、結局は神様が認めて高くしてくださいます。
ある人は「神様の戒めをどのようにすべて守れるだろうか?」と言いますが、神様の戒めを守り行うことは難しいことではありません。「聖霊様が助けてくださり、神様が恵みと力を下さるので十分にできる」と信じて行えば、とてもやさしいのです。十戒と御霊の九つの実、愛の章、八つの幸いを成し遂げれば、神様の御目からの義を行うことができます。
私は初心者の時から、聖書を読んで罪が発見されればノートに書いて祈っていったところ、あまり経たないうちにすべて捨てられました。神様を愛して、天国の栄光と報いを見つめたら、戒めを守ることが難しくありません。ひょっとして「私にはあまりにも捨てることが多くて、いつすべてを捨てるのだろうか?」と言うならば、一番捨てにくいものを置いて、集中的に祈って断食して捨てていけば、残りは簡単に捨てられます。ちょうど、大きい根を引き抜いてしまえば、小さい根は一度に抜けるようなものです。
第二歴代誌16章を見れば、南ユダのアサ王はもともと神様によく仕えていましたが、心が変わって罪の壁を積み重ねたため、両足とも病気にかかってしまいました。この時でも、魂を砕いて罪を告白し、神様にすがらなければならないのに、世の医者に頼ったため、結局死んでしまいました。
今日も、多くの人々が「全知全能で生死禍福をつかさどられる神様を信じます」と言いますが、実際に問題が起きれば世に頼る人がたくさんいます。みことばをたくさん聞いて知っていても、戒めを守らなければ、いやされる霊的な信仰が来ないのです。聖霊を受けて、神様の子どもとされる特権を受けて、暗やみから出て光の中で、義の中で行っていけば、神様との間に詰まった罪の壁が壊されて、その分信じられる信仰が来て、神様のみわざを体験していくことができます。病気にかかることもないし、もし病気がスキをついたとしても、すでにいやされたと信じれば、直ちに解決されるのです。

愛する聖徒の皆さん、
イエス様がむちに打たれて、血を注ぎ出されたため、私たちのすべての病気とわずらいが贖われました。したがって、神様の戒めを熱心に守り行って、どんなことでもおできになる神様に万事に頼り、栄光を返していかれますよう、主の御名で祈ります。


 

 

 
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