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神は光であって_ 「神は光であって」シリーズ1
万民ニュース
第 194 号
2482
2018. 12. 23
万民中央聖潔教会・堂会長イ・ジェロク牧師
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」 - 第一ヨハネ1:5 -
いくら闇が濃い夜でも、一度太陽が上れば、闇はどこかに消えてしまう。同じように、光の中にとどまる人には、太陽の前に闇が消えるように、問題が解決されて答えと祝福が臨み、さらに周りの人々も光へと導くことができる。
それでは、光と闇は霊的に何を意味するだろうか。また、私たちが闇を脱ぎ捨てて、光の中にとどまるには、どのようにしなければならないのか、調べてみよう。
1. 光の源であられる神
宇宙万物を創造された神は、病気や事業の場、家庭のどんな問題でも、解決できないことのない全知全能の方である。だから、神を見つけることが問題解決の最も確かな道であり、何より尊い永遠のいのちを得る方法である。これが真実であることを知っている人ならば、誰でも神を見つけたいと思うだろう。
神は光であるので、誰でも光に従って出て来さえすれば、その中におられる神を見つけることができる。光とは霊的に、闇が全くない、永遠で完全な神を意味する。<ヤコブ1:17>に、神には移り変わりや、移り行く影はないとある。
このように、光とは霊的に「神ご自身を指すものであり、最高の完璧さを現わす表現」である。私たちが何かの単語で神を表現するのは不可能だが、この地上のもので説明して現わしてこそ人が理解できるので、「光」という単語で表現したのだ。
2. 信仰、善、義、霊、光との関係
信仰生活を始めて最初に学ぶのは「信仰」である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハ3:16)とあるとおり、イエス・キリストを信じることによって罪が赦されてこそ、永遠のいのちを持つことができ、天国を所有できるからだ。
信仰は二つに分けることができる。肉の信仰は、単に聖書のみことばを聞いて知っている知識的な信仰であり、行いのない死んだ信仰のことを言う。一方、霊の信仰は、無から有が創造されることをみことばのとおり信じる信仰であり、生きた信仰、すなわち、行いが伴うまことの信仰である。
それでは、霊の信仰を所有して、窮極的に達成しようとすることは何だろうか。最初の人アダムが罪を犯した後、失った神のかたちを取り戻すことである。すなわち、善そのものであられる神に似せられていくことであり、悪はどんな悪でも避け、心がただ「善」に変えられて実践することである。このように信仰生活をしながら、どれほど善を心に耕したのかがわかる基準がまさに「義」である。
ここで「義」とは「罪を捨てて神のことばを守り行い、信仰を追い求めて聞き従っていくこと」であり、自分の思いや経験、知識に合わなくても、真理を追ってただ「アーメン」と従うことを意味する。したがって、神の子どもならば変わらず義を行うべきだが、実際はどうだろうか。
たとえば「赦しなさい」というメッセージに恵みを受けて、初めは赦すが、自分の利益に合わない状況に会えば相手を赦せない。これは、自分の中に変わる属性、すなわち肉があるので、継続的に義を行えないのだ。
イエス様が「七度を七十倍するまで赦しなさい」と言われたので赦すものの、最後まで赦さなければならない。これがまさに変わらない「霊」というものであり、このような心になるためにどうしても必要なものが愛である。イエス様が全人類の罪を贖ってくださるために十字架につけられて死なれた義の行為も、まさに愛があったのでできたことだった(ローマ5:18)。
したがって、「義」が愛を通して一つの完成された結晶体として出て来たものが「霊」であり、御霊の歩みに入れば、神を信じて従い、行うことに変わりがなくなる。このような姿があらゆる分野で完全に現れる時がまさに「全く聖なるものとされた」ということであり(Iテサ5:23)、そうなれば、行うことは何でも「光」として現れる。行く所はどこででも神の栄光を現し、神がともにおられるみわざが現れる。つまり「霊」が内面的な属性を表現したものだとすれば、「光」はこの内面的なものが外に現れた時の属性を表現したものなのだ。
私たちが太陽を指して「太陽」と言うが、実際に私たちが見ているのは太陽の光である。つまり「神は霊ですから」(ヨハ4:24)と言いながら「神は光であって」と言うのは、神は霊、すなわち変わることのない完全に聖なる方であられるが、これが私たちに現れるのは光だからである。しかし、私たちが必ず全く聖なるものとされた段階に達してこそ光を放つのではなく、たとえ初心の者であっても、その段階に合った光を放つことができる。
<エペソ5:9>に「──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──」とある。ここで「あらゆる善意」とは「善」のことを言い、「正義」とは善の基準になる「義」を指し、「真実」とは変わらない「霊」の心のことを言う。したがって、光の実には必ず善が現れるものの、義の行いが変わらない霊の属性をもって現れなければならない。
たとえば、まだ御霊の歩みに入っていないとすれば、その人に該当する善の段階の姿が義の行いを通して出て来る。しかし、肉があるほど状況によって変わる余地がある。つまり「信じます」と言って同じ告白をしても、人によって善と義、霊と光が違うので、神の愛と恩寵を受けるのも違ってくる。しかし、御霊によって歩むようになると、相手を感動させるほどの善が変わらない義の行いを通して現われ、全く聖なるものとされれば、あらゆる分野で最高の善の心で信仰と従順と行いの義を変わらず行う。
信仰の父アブラハムは神のことばに従って信仰と従順と行いの義を変わりなく行った。最後の関門だったひとり子イサクをささげる試みにも、死者の中からよみがえらせることもできる神を信じたので、おことばに完全に聞き従ってイサクをささげた。
このように神に全面的により頼んで従ったので神から義と認められたし、善そのものであられる神の友と呼ばれたほど全き善を認められたのだ。ついに神はアブラハムを信仰の父として立ててくださり、彼の行いは今日、神を信じる私たちすべてを光で照らしている。
3. 光と反対になる闇に属するもの
このように光に属するものがある一方、光と反対になる闇に属するものもある。闇とは一言で言うと、罪に属するすべてである。すなわち、「肉の行い」と「肉的なこと」、そして「自分の目には正しいと思えるが、神の御目には悪いこと」などである。
たとえば、不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争いなどの「肉的なこと」をもっぱら考えていること、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意などのような「肉の行い」は、聞くだけで闇が感じられる。しかし、自分の目には正しいと思えるが、神の御目には悪に該当するものは、闇と感じられないこともある。しかし、光で照らせば、必ず闇は現われるようになっている。
聖書を読めば、イエス様が、時が来てエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されることを言われた。この時、ペテロは「主よ。・・・そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」といさめ始めた。しかし、イエス様は「下がれ。サタン。」とペテロを叱られた(マタ16:21〜23)。
ペテロはイエス様がエルサレムに行くのを引き止めることが師のためだと思ったが、神がご覧になる時は人のことを思う闇だったのだ。それで、<ヨハネ12:46>でイエス様が「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と言われたのだ。誰でもイエス様のみもとに出て来て、イエス様が教えられた霊の愛と八つの幸い、そして御霊の実などの真理のみことばに従う人は、それ以上闇の中にとどまらないで、光のほうに出て来るのだ。
4. 光のほうに出て来ることができない理由
まず、闇が好きで、光が嫌いだからである(ヨハ3:19〜20)。世の快楽と物質、自分の利益を追って生きるのが好きなので、真理と善を追いなさいという光のみことばを嫌うのだ。また、自分の思いに遮られて誤解するからである。たとえば「真面目に生きればいいだろう。なぜ教会に行ってこそ救われるのか」と言うのだ。彼らは、神は認めるが「なぜ自分が罪人であって、主を受け入れなければならないのか」がわからないので、教会に来ないのである。
次に、神を信じる人々につまずかされる場合である。時々、教会に通っている人々が偽りを言って偽善的だから教会に行かない、と言う人々がいる。しかし、教会に通っているからといって、みな主を信じているのではない。
<マタイ7:21>に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とある。みことばを聞いて守り行う人だけがまことの信仰を所有した人である。口では信じると言いながら、世の人々と変わるところなく行うならば、これは神とかかわりがなく、救われることもできない。
もしこのような人々を見て心の戸を閉ざして救われず、永遠のいのちを持てないならば、どれほど愚かなことだろうか。信仰の手本となる光の人々を見て、神の御前に出て来ることができる、知恵ある心を持つように願う。
5. 光の中にとどまる人に臨む祝福
神は明らかに「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 (マコ11:24)と約束されたし、また「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた(マタ9:29)。
光である神のほうに出て来て、信仰生活を熱心にしているといっても、相変わらず病気が離れないで、事業の場の問題、家庭の問題などで苦しんでいる人々がいるが、その理由は何だろうか。本人は光の中を歩んでいると言うが、実際はそうではないからである。
私たちが光のほうに出て来ることと、光にとどまることとには、違いがある。ひとまず光のほうに出て来たとしても、皆が光にとどまっているのではない。再び闇に戻るなら、これは決して光の中にとどまっていると言えない。
たとえば、他の人を憎んでいた人が恵みを受けて心をしばらく変えていて、時間が流れて以前のように再び憎むなら、何の役にも立たないのだ。また、光にとどまるといっても、完全な光の次元に至る時まで、絶えず光へとより近くに出て来る過程が必要なのだ。結局、完全に光にとどまるとき、<第一ヨハネ3:21〜22>のみことばのとおり、大胆に神の御前に出ることができ、求めるものは何でも頂くことができる祝福のみことばが臨むようになる。
愛する聖徒の皆さん、
光である神を見つけて、それ以上闇の中にとどまらず、ただ光の中にとどまれば、すべてがすんなり解決して、いろいろな人生の問題がすっきり解決される。光である神の子どもたちのように行うだけでなく、完全に光の中に出て来て、光の実を結び、思う存分神に栄光を帰されるように、主の御名によって祈る。
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