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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

昼間歩けば、つまずくことはありません_ 「神は光であって」シリーズ4

万民ニュース   第 197 号
3371
2019. 03. 24


堂会長イ・ジェロク牧師


「イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
- ヨハネ11:9 -



光である神は子どもたちの願いにただ答えて祝福されるのではない。正しい道を歩めない時は叱責し、人の杖、人の子のむちをもって懲らしめたりされて、光の中へと導いてくださるのだ。光の中にとどまれば、何をしても成功させていただける。

親がまことに子どもを愛するならば、叱るべきことがあるとき、厳しく叱り、時には叩いてでも正しい道を歩むようにするだろう。信仰にあっても同じである。光である神は子どもたちの願いにただ答えて祝福されるのではなく、正しい道を歩めない時は叱責し、人の杖、人の子のむちををもって懲らしめたりされて、光の中へと導いてくださる。
このように光、すなわち神のことばの中で生きていけば、昼間歩くようなものなのでつまずかないが、暗い夜に歩けばつまずくのが見られる。それでは、光の中にとどまることでつまずかず、何をしても成功させていただくには、どうしなければならないだろうか。


1. 暗いところが少しもない、完全な光である神

イエス様が「昼間は十二時間あるでしょう。」と言われたみことばの意味を調べてみれば、昼間の十二時間とは、日の出から日の入りまでの間、太陽が照らしている時間である。霊的には、闇が少しもない、完全な光を意味する。また、光は暗いところが全くない、永遠で完全な神を意味する。
電気が来る前は、夜道がとても暗くて、月の光に頼って道を歩かなければならなかった。しかも月が見えない新月には、前がよく見えなくて転んだり、穴に落ちたりすることが多かった。だが太陽が昇れば、町中がひと目で入って来て光の中を歩くので、転んだりつまずいたりする心配がない。
したがって、昼間歩けばつまずくことはない、ということは、光である神のことば、すなわち真理の中に完全にとどればつまずかない、ということである。


2. 光の中にとどまることでつまずかず、何をしても成功させていただくには

1)救いに関する分野

人が生まれていくら富と権勢を味わって生きたとしても、結局は誰でも死を迎えるようになる(詩90:10)。世には富と栄華と健康、家庭の平安など、すべてに満ち足りている人も珍しいが、ひょっとしてそのように生きている人でも、近づいて来る死を避けられないから、まことに空しいことである(ヤコ4:14)。
ルカの福音書16章19節以下に記されている金持ちと貧しい人ラザロのたとえを通しても感じられる。金持ちはこの地上で贅沢三昧をして、うらやましいことなく生きていたが、神を信じなかったので、死んで永遠に消えない炎の地獄でとこしえに苦しみを受けるようになった。反対に、貧しい人ラザロはこの地上でしばらく苦しい生き方をしたが、死ねば救われて、永遠のいのちを受ける天国を所有することができた。
このように人生の最も重要なことはたましいの救いにある。ところで、救われるためには、必ず光の中にとどまっていなければならない。
伝道してみると、以前は教会で聖歌隊をしていたとか、教会学校の教師をしていたと言う人がいるかと思えば、教会の働き人と不仲になって教会に行かないと言う人もいる。しかし、本当に神を信じるまことの信仰ならば、どんな環境の中でも揺るがないし、堅固である。自分では信仰があると思っていたが、光の中にとどまってはいなかったので、自分の思いに合わないからつまずき、神から離れるのだ。
聖書で、光の中にとどまって救いを得た人々を見れば、神の国と義のためにならばどんな患難や迫害も喜びと感謝で受け、犠牲になって献身した。敵である悪魔・サタンは何としてでも光の中で生きられないように惑し、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っているので、いつも身を慎み、目をさましていなければならない(第一ペテ5:8)。
<ヘブル10:22>に「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とある。聖霊を受けて神の子どもとされたら、心の悪を脱ぎ捨てて神のことばで毎日洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づくとき、完全に光の中にとどまるようになる。するとつまずくことのない生き方になる。それだけでなく、私たちの霊、たましい、からだが責められるところのないように完全に守られてこそ、輝く光の衣を着て主にお目にかかれるのだ(第一テサ5:23)。

2)病気に関する分野

私たちが光の中に出て来れば、救いはもちろん、すべての病気から解放される。病気にかかる理由はいろいろあって、第一は罪によるものであり、第二は過労や当然守るべき肉の秩序を破ったからである。第三は神経性や精神的な問題によるもので、第四は敵である悪魔による場合である。
このように、すべての病気の原因は結局、神のことばに背いて生きたからだということがわかる。したがって、病気の問題が解決されるには、みことばを通して自分の罪を発見し、心を砕いて罪を告白することによって、神との間を隔てている罪の壁を壊さなければならない。その時にはじめて天から信じられる霊の信仰が与えられ、病気がいやされる(イザ53:5)。
これとともにすべきことは、神のお心を動かすほどの信仰の行いである。マルコの福音書7章に記されているスロ・フェニキヤの女の告白がどれほど感動的だろうか。悪霊につかれた娘がいやされるためにイエス様のみもとに出て来た女は、自分を犬にたとえたおことばも全く意に介さず、さらにへりくだった姿で「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」という告白をする。この女のへりくだった告白はイエス様のお心を動かし、直ちに女は答えを頂いた。
また、光の中に完全にとどまれば、さらに健康であるようにしていただける。モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜だったし、全家を通じて忠実な者であった(民12:3,7)。このように光の中にとどまっていたので、120歳という年齢でも、目はかすまず、気力も衰えていなかったのだ。
すべてのことにおいて神の良きみこころに従って行うとき、光が臨むようになり、その光によってつまずくことなく、いつも幸いで健康でいられるのだ(イザ58:7〜8)。

3)事業の場、職場に関する分野

ヨセフは兄たちにねたまれて他国に奴隷として売られて行ったが、行く所ではどこでも神がともにおられたので成功したのが見られる(創39章)。エジプトの侍従長ポティファルの家で奴隷だった時には、その誠実さが認められて側近の者として立てられる。その後、はかられて監獄に入ったが、そこでも光の中を歩んだのでつまずかない。
監獄でなされるすべてのことを管理するようになり、結局ヨセフはどこの誰も解き明かすことのできなかったエジプト王の夢を解き明かすことで、国の統治者の座にまで上る。環境と条件が劣悪でも、光の中で正道を追ったので、神がともにおられて成功させてくださったのだ。
神を信じる人の成功と失敗は環境や条件にではなく、その人がどれだけ神により頼んでいるかにかかっている。すべてのことに神を認めて行うとき、その道を導かれ、つまずくことなく栄える生き方ができる(箴3:6)。
たとえば、店を出すのにふさわしい場所のために祈っているうちに良い場所が見つかれば、すぐ神が下さった答えだと決めつけて、急いで事を進めることがある。これは神により頼んだのでなく、自分の気に入って、思いに合うから進めたことだから、かえってサタンが訴えて、より大きい困難に遭うこともあるので、注意しなければならない。
たとえ気に入ったとしても、必ず帰って確信が与えられる時まで祈り、ひょっとして神のみこころではないなら、すぐ心から立ち返らなければならない。すると神はこのようにご自分にだけより頼む子どもに、より大きく豊かなものを与えてくださる。
<ヤコブ1:6>に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」とあるように、信じて求めたことは必ず受けたと信じて、疑ってはならない。また、全知全能の神が父であられるので、何でも求めるものは与えてくださると信じて、すべての過程を受け入れて期待しながら待つのだ。
もう一つ留意する点は、相手の利益を求める心でなければならないことである。たとえば、親しいからといって、神が禁じられた保証人になってくれと言うとか、または信仰の兄弟にお金を貸してほしいと言うことは自分の利益を求めることで、相手を苦しめるやみのわざなので、神が働くことがおできにならない。霊の愛は自分の利益よりまず相手の利益を求めることである。自分がたとえ損害をこうむるとしても、相手の利益を求めるとき、神が働くことがおできになる。
このように私たちの心が神の望んでおられる良い心に変えられた時にはじめて、聖霊の声を明らかに聞くようになって、神のみわざを体験することができる。すなわち、昼間の明るい光の中にとどまることになるので、入るときも、出て行くときにも祝福されるのだ。

4)家庭がなごやかになるための分野

離婚する際、ほとんどが感情がすれ違って、気が合わないからだと言う。しかし、霊の愛は自分を犠牲にすることで、相手の利益を求めることであり、一歩進んでいのちも与えられるものであり、どんな状況でも決して変わらないのだ。自分の利益を求める肉の愛をしたので、初めは愛し合っていた夫婦とはいえ、結局憎しみだけが残るのだ。
しかし、このような家庭でも、光が臨めば暗やみが退いて、愛で一つになってなごやかになれる。
夫の浮気のため憎しみという感情でいっぱいだった女性がいた。だから、夫婦が顔を合わせさえすればけんかをするしかなかったが、教会に来て礼拝をささげ、「敵をも愛しなさい、敵が飢えたら食べさせて、喉が渇いたら飲ませなさい、仕えるものの主に対してするようにしなさい」このようなみことばを聞いた。
そして、光である神の御前に自分を照らしてみると、あらゆる暗やみに染まっていたのだ。また、醜くて汚れた自分の罪が赦されるために、イエス様が十字架につけられて死なれたということと、自分が兄弟の罪を赦す時にはじめて自分の罪も赦される、ということも知るようになった。
このようにみことばを通して自分の欠けているところを発見し、祈りと断食によって真理でないものを捨てていくと、自分につらい思いをさせていた夫でも愛することができた。かえって夫に、その心をよくわかってあげられなくて悪かった、とまで言えたのだ。結局、夫が悔いて、主にあってなごやかな家庭をつくるようになった。
現実的にはつまずくしかない家庭だったが、光が臨むことで憎しみが変わって愛になり、わだかまりが解けて赦しになるので、暗やみが退いて幸せな家庭になったのだ。明るい光は暗やみを追い出し、憎しみを愛に、悪い心を善の心に変えさせて、かたくなな心を溶かす、ということを悟らなければならない。

愛する聖徒の皆さん、
<ローマ13:13〜14>に「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」とある。すみやかにやみのわざを打ち捨てて、ただ光の武具を着け、何をしても成功させていただけるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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