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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

自分の罪を言い表すなら

万民ニュース   第 198 号
1875
2019. 04. 28


堂会長イ・ジェロク牧師


神は真実で正しい方なので、私たちがその御前に自分の罪を言い表すとき私たちの罪をすべて赦し、すべての悪からきよめてくださり、光のほうに出て行くとき、さらなる祝福を下さる。



光である神の御前ではいくら小さい暗やみでも決して隠すことができない。ところで、神は真実で正しい方なので、私たちが自分の罪を言い表せば、その罪を赦し、きよめてくださる。問題は、自分が暗やみにいながらもそれを悟ることができない、ということである。
これは、人によって過ちや罪だと思う基準が違うからである。つまり、それぞれ良心が違い、育ってきた環境と教養が違い、自分なりに立てた価値判断の基準が違うからなのだ。それでは、私たちがなぜ神の御前に罪はないと言えないのか、また、罪とは具体的に何であり、罪を言い表すということは何なのか調べてみよう。


1. 私たちが神の御前に罪はないと言えない理由

<第一ヨハネ1:8>に「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」とある。まず、神はなぜ「私たちが罪はないと言うなら、自分を欺いている」と言われたのだろうか。
聖書を読むと、人類の祖先であるアダムとエバが善悪の知識の木から取って食べることで神に聞き従わず、罪が世に入って来るようになった。それで、その子孫として生まれた私たちは気を通してその罪の性質を代々受け継いだので、決して罪はないと言えないのだ。これがまさに原罪であり、この他にも世を生きていきながら自分で犯す罪が多い。
ところで、罪の問題が解決されなければ、永遠の死に至って地獄の火に落ちるという、恐ろしい刑罰を免れない。罪人は神の国を相続できず、神の御顔を拝することもできないからである(ローマ3:23,5:12)。
愛なる神はこのような罪を赦してくださるために、約二千年余り前にひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださった。時期が来て、イエス様が私たちのすべての罪を代わりに負って木の十字架にかけられて死なれ、死の力を打ち破ってよみがえられることによって全人類に救いの道が広く開かれた。そして、誰でもイエス様を救い主として受け入れれば、信仰によって義と認められて(ローマ3:24,5:1)、神の子どもとされる特権を頂くようになったのだ(ヨハ1:12)。
このように私たちがイエス・キリストを信じることによってすべての罪が赦されたとしても、律法を完全に行う聖めの段階に至るまでは、根に罪の性質が残っている。また、捨てていなかった悪によって一瞬罪を犯したりもする。真理を知らずに罪を犯すこともあり、知っていながらもまだ信仰が弱くて罪を犯すこともある。したがって、神がお認めになる完全な聖めに至る時までは、誰も自ら罪はないと言えないし、もし罪はないと言えば、自分を欺いていることになるのだ。
次に、「私たちが罪はないと言うなら、真理は私たちのうちにない」というみことばの意味は何だろうか。
真理とはすなわち神のことばである。真理が心の中にある人は聖霊が神のことばを通して光で照らすので、みことばに逆らうことがあれば悟るようになる。だから、真理がその中にあるならば、完全に聖められて暗やみが全くなくなる時まで、決して罪はないと言えないのだ。
それなら、このような罪を解決するためにはどうすべきだろうか。真実で正しい神の御前に罪を言い表さなければならない。そうするとき、神が私たちの罪をすべて赦し、すべての悪からきよめてくださり(Iヨハ1:9)、言い表したことはそれ以上罪があると言われないのだ。


2. 神の法にあって「罪」とは何か

辞書で「罪」とは「道徳・法律などの社会規範に反する行為。」または「罪を犯したために受ける制裁。」のことを言う。これは神の国でも同じである。救われて神の子どもとされた私たちは天の御国の国籍を持つ民として(ピリ3:20)、神の国の法である霊の世界の法を守らなければならず、これに逆らえば罪になる。
霊の世界の法とは、霊の世界の主である神がお立てになった法であり、聖書66巻に記されたすべての神のことばである。<第一ヨハネ3:4>に「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とあるとおり、聖書に逆らうすべてが不法であり、罪である。もちろん、神を信じない人はイエス・キリストを信じないこと自体がすでに罪になる(ヨハ16:9)。それでは、神の法にあって罪になることは何だろうか。

第一に、行いで犯した罪、すなわち、肉の行いである。
肉の行いをする人は必ずさばきを受けて罰せられるようになり、決して神の国を相続することはない(IIコリ5:10;ガラ5:19〜21)。もちろん、イエス・キリストを受け入れて聖霊を受けたからといって、初めからすべての肉の行いを一気に断ち切れる力が与えられるのではない。聖霊に助けられて、光の中できよく生きようと努力しながら熱心に祈っていくとき、はじめて一つずつ捨てていけるのであって、捨てていくこの行いが信仰であり、信仰生活なのだ。
したがって、まだ捨てられなかったことがあれば、涙で悔い改めて祈って、聖霊に助けられて立ち返らなければならない。このように罪を言い表して努めて捨てていく人はいつかはみな捨てるので、神が肉の人と言われず、信仰によって義と認めてくださる。罪を言い表して立ち返っていけば、それが信仰と認められ、真実で正しい神の御前に罪が赦されるのだ。

第二に、心で犯した罪、すなわち、肉的なことを考えることである。
光である神の御前には、心に抱いたあらゆる悪が暗やみであり、罪である(ローマ14:10;ヤコ4:11〜12)。旧約時代には行為として現れた不法だけが罪だったが、新約時代になると心に抱いた悪まで罪になる。旧約時代とは違って、新約時代には聖霊により頼んで心に割礼を受け取れば、十分に心の罪までも捨てていけるからである。このように心の割礼を通して変えられれば、イエス・キリストの光がその中にとどまるので、心から完全な光の行いが出て来る。
光とは赦しと愛、親切である。また、相手の利益を求めて、すべてのことを良いほうに見て、聞いて、話して、思うことである。だから、これと反対になるさばくこと、罪に定めること、憎しみ、ねたみ、そねみなど、闇のものを心に持っているなら、ただ目に見えるように現れなかったからといって、罪はないと言えないのだ。さらに、私たちのために十字架の苦しみをお受けになった主の愛を思うなら、神の命令を守っていくことで(Iヨハ5:3)光に属する実を結ばなければならない。


3. 暗やみのようではないが神の御目に暗やみであること

神のことばではっきり現れる暗やみは発見して捨てるのが難しくないが、ちょっと見て暗やみではないようでも、根が暗やみであることがある。
たとえば、人がうまくいくのを見てそねんでねたむのではないが、気を落とす場合である。この時、他人に悪を行うとか、心にねたみ、そねみの形で持ってはいないので、暗やみと思わないこともある。しかし、光に属する霊の愛は真理を喜ぶ(Iコリ13:6)。相手が自分より愛されて認められているのを見ると、気を落とすのではなく、喜んでうれしく思うのだ。
別の例として、自分は真理に従っていると思っていたのに、平和が壊れる場合である。たとえば、神の国のためのことだと思って全体意見を自分が願う方に導いたが、これによってつらくなる人が出て来たとき、それを意に介さないのだ。光に従ったとすれば、必ず平和が伴うということを知らなければならない。平和とは、自分が正しくても、真理に逆らうことでないなら相手に合わせ、自分を目立たせないで誰とも引っかからない心である。結局このような光にとどまらなかったので、暗やみとして現れるのだ。
この他にも、自分の目に正しいと見えるので、暗やみだと思わない場合がある。たとえば、事を指示したり、指示されたりする場合、その結果がどう出て来たかによって、それぞれその反応が違うのが見られる。
良い結果が出れば、事をさせた人は「私が指示してした事だから私の功労だ」と言い、直接した人は「私がしたから私の功労だ」と主張する。しかし、結果が良くない時は、互いに何としてでも責任を免れようとする。そうしながら互いに全く過ちだと思わず、かえって正当だと思う場合が多い。このように他人のせいにしようとする心自体を捨ててこそ、たとえ誰かが大きい過ちをしたとしても、愛でその過ちを覆ってあげられる、光に属する姿が出て来るようになる。
責任を転嫁したり、免れようとしたりするのではなく、自分が加わったことだけでも責任を感じて自分のせいにする。それだけでなく、不当に苦しみにあったり、濡れ衣を着せられたりしても受け入れる心ならば、神はこれを喜んで罪があると言われないのだ。いくら些細なことでも過ちを言い表す心なので、義とお認めになって祝福してくださる。その後、その人が一緒にする事には困難が生じないように、守って導いてくださるのだ。


4. 光の中にとどまるには罪を言い表して立ち返ってこそ

罪を言い表すとは、単に口先だけでなく、罪を告白した後に徹底的に罪から立ち返ることを意味し、このようなとき、主の尊い血がその罪を洗いきよめてくださる。ところで、ひょっとして相変わらず憎む心を持っていながら、自分の罪を赦してくださいとだけ言うならば、神はその人を偽りを言う者だと言われる(Iヨハ1:6)。
ダビデ王は神の心にかなった者だと認められるほど光の中を歩んだが、初めから責められるところがなく完全だったのではない。ウリヤの妻バテ・シェバと寝て彼女がみごもると、この事実を隠そうといろいろな方法を使った。しかし、計画が繰り返しはずれると、後にはウリヤを異邦人の手で死なせるという、途方もない罪まで犯すようになった。これは心の中にあった肉の欲、すなわち、自分にとって良いと思うとおりに手に入れようとする心と、目を通して動き出す目の欲などの暗やみが残っていたからである。ところが、神が預言者ナタンを通して彼の罪を指摘なさると、ダビデは直ちに悔い改めて立ち返った。
罪に対する報いとしてバテ・シェバが産んだ子どもが死に、謀反を起こした息子アブシャロムに追われるなど、想像できない試練の時間があったが、ダビデは決してどこの誰に対してもつぶやいたり不平を言ったりしなかった。さらに、民の中に自分に向かって石を投げてののしる人がいても、心が揺らぐことなく耐えて、すべてを神にゆだねて受け入れた。このようにダビデが真実に悔い改めて立ち返ると、神は彼を赦して、試練を通して責められるところなく光にとどまる、完全な器に造ってくださった。
<第一ヨハネ1:9>に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とある。ここで神は「真実で」とあるのは、私たちの短所でなく長所を見て過ちまでも赦してくださるということを言っていて、「正しい方」だということは、罪を言い表して立ち返る人を困難から回復させてくださるだけでなく、変えられるほどさらなる祝福を下さるという意味である。
したがって、暗やみにいながら光のほうに出て来ようとしないことが問題であって、ひとまず光のほうに出て来れば、無限の祝福が待っているということを心に刻まなければならない。

愛する聖徒の皆さん、
真実で正しい神は、罪を言い表して光の中にとどまる子どもの願いに直ちに答えてくださる。光である神の御前に自分を偽りなく照らし、暗いところが少しもない光の子どもになって、求めるものは何でもいただけるように、主の御名によって祈る。


 

 

 
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