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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

[zoom in ズーム・イン] 賛美の本質と姿勢

万民ニュース   第 66 号
10165
2008. 09. 28


音楽は人に喜怒哀楽を感じさせ、人生のエネルギー源になる。
このように正しく用いられると多くの益を与えるが、悪用されると数えきれない人々を堕落の道に引いていく媒体になったりする。
しかし、主にあっての音楽、つまり、賛美は、魂を健やかにし、すべてを美しく変える驚くべき力を持っている。
このような賛美の力で魂が新しくなって、答えと祝福を受けて生きるために、まことに神様が喜ばれる賛美とは何か、調べてみよう。


救われた神の子どもが、その恵みに感謝して賛美することは当然である。また、賛美を住まいとしておられる神様は(詩篇22:3)、子どもたちがメロディーのついた祈りである賛美をささげてお喜びになると、彼らに慰めと喜びを与え(詩篇105:2-3)、傷ついた心をいやし(第一サムエル16:23)、すべての苦難を勝ち抜く力と助けを与え(使徒16:25-26)、心の願いに答えるなど多くの祝福を下さる。ただ賛美するからといってこのような祝福が臨むのではなく、神様が喜ばれる賛美をささげるとき、霊肉ともに豊かになれるのだ。

音楽の始まりは神様への賛美

詩篇69:31には、賛美することが雄牛、角と割れたひずめのある若い雄牛にまさって主に喜ばれるとある。人が雄牛一頭をささげるのはやさしいことではない。当時、豊かでない人は羊やヤギをささげ、それさえない貧しい人は鳩や穀物をささげた。ところが、いろいろな供え物のうち最も尊い雄牛のいけにえよりも、心を込めた賛美のほうを神様は喜んでお受けになるのだ。
世界の始まる前から、数えきれないほどの天の軍勢と天使が、神様の栄光のために賛美してきたし、これからもとこしえまで賛美してあがめるだろう。このように神様への賛美が音楽の始まりと言えるが、賛美を担当していた天使のかしらルシファーは、美しい演奏と歌で神様の栄光を賛美しながら、いつもその側で特別な愛を受けていた。権勢と威厳も与えられ、他の天使と違って人性を持つようになったのだ。しかし、歳月が無数に流れるにつれ、だんだん高ぶりが生じて、神様がもともと下さった心が変わってしまった。
結局、ルシファーは神様を裏切って底知れぬ穴に閉じ込められていたが、時になって悪い霊どもの首領として闇の勢力を支配するようになった。天上で神様から愛されていた時は、言葉で表せないほどまぶしく輝いて美しかったルシファーは、堕落した後、ぞっとするような姿に変わってしまった。このような自分の姿に似ていくように、世で流行しているもので何としてでも人の心と思いを捕らえて、自分の思いどおりに引いて行こうとしている。

ルシファーと音楽

特に音楽をする人々の中には、自分でも知らないうちに闇に支配される場合が多い。全身に気味の悪い刺青やアクセサリーをつけて、もつれた髪の毛を振り乱しながら、引き裂くような楽器の音と頓狂な声で自己陶酔して歌ったり、おかしな歌詞とメロディーで人の心を捕らえたりする。
このような音楽を聴く人の中には、ひどい逸脱行動まで起こす場合もある。堕落する前に賛美を担当していたルシファーが、世の音楽で人の心をそそのかして捕らえていきながら人々に拝まれるのだ。ここで言う「世の音楽」とは、歌詞や曲、またはそれを歌う歌手などいろいろな面を見たとき、神様の前でふさわしくない音楽のことである。
世の音楽の中にも、世の中の事を美しく表現して、天国の美しさを思い浮かばせるものもある。しかし、特別な場合でなければ、まことに神様だけを愛して天国を望む人々は、世の音楽を聴こうともしない。いくら良い音楽があっても、神様を賛美して天国を望むようにさせる賛美を聞こうとするのだ。
また、主を愛する心を万が一にも奪ったり、世に心を向けさせたりする音楽があるなら、当然警戒すべきである。それに、音楽の始まりが神様を賛美するためであり、神様が賛美を受けることを喜ばれることを悟るなら、賛美を聞くことを楽しんで、その口からは世の音楽でない賛美が流れるだろう。

神様が喜ばれる賛美

うわべでなく心をご覧になる神様は、賛美する人のテクニックや美しい声を聞かれるのではなく、信仰と愛、従順、そして、どれほど神様を畏れて真理の中に生きていくのかをもっと尊く思われる。賛美とは、神様への信仰と愛が込められていて、創造主の偉大さを声と全身で表現するものだからである。
<ヨハネの黙示録14:1〜3>には、七年患難中に殉教した十四万四千人の伝道者が、御座の前と四つの生き物および長老たちの前で、新しい歌を歌う場面がある。彼らは主のために殉教するほど心が清くて美しいので、その賛美が主の御声のように「大水の音のようで、激しい雷鳴のようで、立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。」と表現されている。
聖なる神様は、ご自分の子どもたちも悪がない、清く聖なる心であることを願われる。心を尽くして神様と主を賛美して聖霊の力を求めるとき、聖霊に感じるようになる。この時、世に打ち勝って罪を捨てる力が与えられ、信仰、希望、愛が加わる。
そうするためには、火のように祈って、心が聖められるために絶えず努力しなければならない。すべてのことに善を行って、すべての人と平和をつくって、良い言葉だけ出す口にならなければならない。このようにふさわしい賛美で神様に喜ばれるなら、聖霊に感じて動かされ、交わって満たされ、聖潔の賜物も注がれて、心の願いもかなえられる。

私たちの人生を豊かにする賛美

使徒の働き16章で、イエス・キリストを伝えて奥の牢に入れられたパウロとシラスが賛美を歌うと、牢のとびらがあいて鎖が解けるみわざが起こった。死の陰の谷に落とされても神様への信頼が変わらなかったパウロとシラスは、心からにじみ出る感謝の賛美がささげられた。奥の牢で賛美が響くとき、天国でも彼らの賛美が響いて、その香は神様の御座を揺り動かしたのだ。
歴代誌第二20章を見ると、南ユダ王国のヨシャパテ王の時代に、モアブ人とアモン人が連合してユダを攻めて来たことが記されている。この時、ヨシャパテ王は聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命し、彼らが武装した者の前に出て行って主を賛美した。これはただ神様を信じて頼った行いであり、神様は敵軍が互いに滅ぼし合って、ユダが勝利するように働かれた。
また、サムエル記第一16章では、ダビデが立琴をひくと、サウルから悪い霊が離れた。
このように神様に喜ばれる賛美をささげると、闇が退いて問題が解決され、魂に幸いを得ているようになるので、答えと祝福が臨む。したがって、神様への賛美は心からにじみ出る信仰の告白にならなければならない。それで、賛美する人の上に注いでくださる神様の愛によって、私たちの人生が霊肉ともに豊かになるのである。


 

 

 
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