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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

自分の限界を克服しよう!

万民ニュース   第 133 号
5714
2013. 11. 24


「限界」とは「物事の、これ以上あるいはこれより外には出られないというぎりぎりの範囲、境。限り。」という意味である。人は自分の能力以上のことを要求されると「これ以上できない」という限界を感じる。だが信仰にあっては限界はない。神様は全知全能だし、信じる者にはどんなことでもできるからだ。それでは、どうしたら自分の限界を克服できるだろうか?


1. 自分の限界とは自分で定めたもの

人はなぜ限界を感じるのだろうか? これは自分で「私はこれ以上できない」と限界点を定めたからだ。マタイの福音書9章23節には「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」とある。したがって、自分の限界とは人の思いと深い関連があるということを悟り、「私は主にあってどんなことでもできる」という信仰の思いに変えなければならない。
そして、最善を尽くして自分の限界に挑戦する努力がなければならない。自分のほうでみことばを武具として身につけるとともに、火のように祈って努力していくとき、神様は大きい恵みを下さり、聖霊様に助けられて限界を克服できるように、さらに強くしてくださる。現実は不可能なように見えても、やればできると信じて挑戦するとき、全能の神様が助けてくださるので、限界をはるかに超えて十分できる人になるのだ。


2. 自分の限界に達した時に現れる現象と克服する方法

すべてにおいて肯定的な心を持って神様により頼む

二人が同じ目標に向かって走って行くとしよう。この時、「できる」という人と「できない」という人の結果は全く違う。「できる」という信仰の告白がまさに信仰の出発点で、神様が望まれる心であり、限界を克服する原動力になるからだ。
すべてにおいて肯定的な心を持って、神様により頼まなければならない。そうでなければ、気を落として疲れてしまう姿、「だめだ」という否定的な心と思いが、また別の限界となる。ある状況に置かれたとき、こんな心と思いになってしまったのではないかチェックしてみて、喜びと感謝をもって克服しなければならないだろう。
もし否定的な思い、すなわち「できない」という肉の思いが先に立って気を落とすなら、その段階を超えられない。それだけでなく、走って行けるように力づけられることもできない。どんな状況でも気を落さないで、否定的な思いを捨て、信仰によって喜んで感謝しなければならない。この時、神様が恵みを下さって変えられるのだ。

主への深い感謝があるべき

今日は世に罪と悪がはびこっていて、主のからだなる教会の敷居さえ越えて入ってきている。まことに神様を愛する牧会者は聖徒たちが罪に染まらないように守るべきであり、罪に染まった教会の信者が悔い改められる恵みと憐れみを引き下ろさなければならない。主が十字架の愛と祈りで手本を見せられたとおりに、涙の求めと犠牲でその公義を積まなければならない。
このように神様がともにおられる牧会者のとりなしの祈りを通して、主はすべての人が救われることを願われ、美しい天国に導いておられる。だから「私も変えられる」という信仰の告白が出てくるしかないのだ。もしいまだに「私はだめだ」という思いがあるなら、その理由は自分の心の中に深い感謝がないからだと悟らなければならない。
したがって、神の愛、主の愛、牧者の愛を悟って、信仰によってより頼み、さらに深い感謝の祈りをささげて心を変えていけば、すみやかに変えられる力が臨むようになる。

火のような祈りで限界を超える

もし祈っているのに変化が遅いなら、それは火のような祈りがなかったからだと悟らなければならない。火のような祈りがあってこそ自分の限界を超えられるように強くされるのに、そうでないから、それ自体が限界になり、変化が遅いのだ。
初めは切に祈るが、祈りの時間の中頃か後半になれば、同じ言葉を繰り返して、居眠りしたり雑念にふけったりして「早く終わったらいいのに。疲れた」と思うなら、祈りの限界を超えられないのだ。毎日祈っているといいながらも、肉の思いにとらわれてむざむざと自分の限界を受け入れ、まともに祈れないのが習慣になったりもする。
これを克服するには、祈るという行いだけを重要視するのではなく、変化の目標を決めて、毎日毎日火のように祈る習慣に変えなければならない。これとともに祈りをやめないとき、上から神の恵みが与えられて強くされ、どんな限界もはるかに超えられるのだ。
神の御子であるイエス様も、汗が血のしずくのように地に落ちるほど、苦しみもだえていよいよ切に祈られた(ルカ22:44)。まして私たちはどう祈るべきだろうか。ルカの福音書18章に記されている不正な裁判官のたとえでわかるように、答えられる時までいつでも祈るべきであり、失望してはならないだろう。
ところで、火のように祈れないのは、それほど慕う心が少ないからだということを知らなければならない。本当に慕うなら、身と心と思いとまことを尽くして、切なる心をもって、変えられるために火のように祈るしかなくなる。自分を発見しようと祈って努力していくとき、その心を知っておられる神様が悟りを下さって、発見できるようにしてくださるのだ。だから、火のように祈って、信仰によって行っていけば、毎日毎日変化の喜びと幸せを体験するようになる。


 

 

 
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