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アルファであり、オメガである最初であり、最後である。初めであり、終わりである。
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2014. 01. 26 |
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神はヨハネの黙示録22章13節で「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」と言っておられる。本来神はとこしえからとこしえまで存在しておられ、無限の空間自体なので、時間と空間の限界がおありにならない。ところが、このように表現された理由は何だろうか? このみことばに込められた霊的な意味を正しく知って、御父、御子、御霊の三位一体の神の果てしなく限りない愛を悟り、すみやかに神のまことの子どもとして出てくるように願う。
人類文明の「アルファであり、オメガ」である 御父の神
使徒ヨハネがヨハネの黙示録を記した当時は、ギリシヤ文明がまばゆいばかりに花開いていた。したがって、ギリシヤ語のアルファベットの最初の文字「アルファ」と最後の文字「オメガ」はすべての文字を代表していて、「アルファであり、オメガである」とは、この地上のすべての知識の初めと終わりのことを言う。 文字は人類の文明の発展と密接な関連がある。文明が発展して伝えられるためには、必ず文字という手段がなければならない。飛び抜けた知識と技術があっても、これを書き記す文字がなければ、後世まで伝えて文明を発達させるのは難しい。 創造主の神は人を造られたとき、知識を積み上げられる力を与えられた。人は積んだ知識を活用して、知恵によって文明を発達させてきた。しかし、人間の知識と文明が限りなく発展するのではない。最初の人アダムを創造された神のご計画の中に、文明の開始点がすでに定められていたのように、その終着点も明らかに定められている。すなわち、人類の歴史のすべての過程は創造主の神の主権の下に始まり、また終わるのだ。 それでは、神が人間に知識を与えて、文明が発達するように許された理由は何だろうか? 文字があってこそ神のことばが記されて、後世まで正確に伝えられ、文明が発達してこそ世の隅々にまで福音が伝えられるからだ。したがって、アルファとオメガは御父の神の分野を表し、人類のすべての知識と文明を始めて、終えるようになさるという意味が込められている。
人間の救いの「最初であり、最後」である 御子の神
「最初であり、最後である」とは、御子の神、すなわち、イエス・キリストの働きに当たる。これは、世界の始まる前から隠されていた奥義、すなわち、十字架の救いの摂理と関連している。主が罪人になった人類を救って、永遠のいのちに至るようにする働きの最初であり、最後であられるという意味だ。 ここで「最初であり」とは、十字架の愛によって死の力を打ち破ってよみがえられたことにより、人間の救いの道を開いてくださったイエス・キリストが復活の初穂になられたことを言う。これについては第一コリント15章20節によく説明されている。 最初の人アダムが神のことばに聞き従わないで罪を犯したので、全人類は死の道へと向かうしかなかった。しかし、誰でも十字架の苦しみと殺されて三日目によみがえられたイエス・キリストを信じれば、救われるようになった。 このように復活の初穂であるイエス・キリストによって、数えきれない実が結ばれている(コロサイ1:6)。ところで、一つの実が結ばれれば、その中にまたもう一つのいのちを誕生させることのできる種がある。したがって、福音を聞いて聖霊を賜物として受け、神の子どもとされる特権を得た聖徒もいのちの種になり、またもう一つの実を結んで、今日、多くの魂が復活にあずかるようになったのである。 それでは、イエス・キリストが「最後」であるとは、どんな意味だろうか?復活、昇天されたイエス・キリストが時期が来て再臨されることによって、人類の救いのわざが終わりになることを意味する(第一テサロニケ4:16-17)。このように再臨によって救いのわざを終わりになさる主のことを「最後」と表現するのだ。 農作業をすると、全部刈り入れてから後に落ち穂を拾うように、空中再臨によって人間の救いの摂理が終わった後には、七年患難中になされる落ち穂拾いの救いがある。
人間耕作の「初めであり、終わり」である 御霊の神
神が人を造って人類の歴史をつかさどっておられるのは、聖なる神に似せられた人々、心から神を愛するまことの子どもたちを得るためだ。したがって、「初めであり、終わりである」とは、人間耕作の初めと終わりを意味し、これは御霊の神の分野である。 本来神が創造された最初の人アダムは罪と悪のない清い心だった。しかし、アダムが罪を犯した後、人類は罪に服従する罪の奴隷、敵である悪魔・サタンの奴隷になってしまった。したがって、心の中に植えつけられた罪の性質と悪を引き抜いて捨て、善と愛を満たす時でこそ、神が望まれるまことの子どもになることができる。 誰でもイエス・キリストを受け入れて、自分の罪を悟ってたましいを砕いて罪を告白すれば、神が助け主聖霊を賜物として下さり、神の子どもとされる特権と祝福を受けられるように助けてくださる。もし聖霊に助けられなければ、聖霊の力によって祈ることも、神のことばを聞いて悟ることもできない。また、聖書に記された神のことばどおり行える力が湧いてくる。 したがって、イエス・キリストを信じて、助け主聖霊を賜物として受けてこそ、人間耕作を受けて、神のまことの子どもになることができるのだ。聖霊に助けられて神のことばどおり聞き従う時は、いのちと平安が臨んで、喜びと恵みがあふれる。しかし、聞き従わない時は、心の中におられる御霊が深くうめかれるので、心がみじめになる。この時も、御霊は聖徒の代わりにとりなしてくださり、変えられるように恵みを与えて強くされるように助けてくださる(ローマ8:26)。 初めに神が人間を創造して、耕作を始められた時から、御霊の神はともにおられて、旧約時代にも多くの働きをなさった。しかし、主が復活、昇天された後から、本格的に働いておられる。人が心を割礼できるように、ひとりひとりの心の地を耕して、聖められたまことの子どもとして出てくるように働いておられるのだ。このような助け主聖霊の働きはいつまでも続くのではない。主が空中降臨すれば終わることを悟り、聖徒は花嫁の備えに努めなければならない。
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