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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

自分の目から梁をなぜ取りのけなければならないか?

万民ニュース   第 165 号
4601
2016. 07. 24


マタイの福音書7章でイエス様が「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われた。

一般に「梁」とは、建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材のことである。ここで「梁」の霊的な意味は「心の中にある大きい罪の性質」である。したがって、自分の目の中から梁を取りのけることで主の心と目ですべての人を見て、互いに愛によって押したり引いたりしてあげ、一つになって進むことで最も美しくて栄えある天国、新しいエルサレムにとどまることができる。



「梁」はさばいて当て推量をするようになる根本的な理由

「さばくこと」とは、良いか悪いか、正しいか正しくないかを問い詰めて、たいてい相手の悪くて正しくない面を現す時に使う。また「当て推量」とは「確かな根拠もなく事実を推しはかること。」で、あてずっぽうに憶測して、事実と関係なくそれを正しいと思うことだ。

このようにさばいて当て推量をする人は自分の目の中に梁があることを知るべきである。心の中に大きい罪と悪の根がある人は、他の人の小さい過ちを見てもおおってあげないで、現わして指摘しようとする。

もちろん、相手を正すために愛をもって指摘しなければならない時もある。しかし、自分の目の中に梁があれば、悪をもって指摘することになるので、相手を悟らせるよりは苦しみを与え、つまずかせることがある。

梁がある人は自分が間違っていることが悟れず、みことばで悟らせても、ほとんどが自分と関係のないみことばだと思って、アドバイスを受け入れようとしない。「私は神様を愛してみことばどおりに生きている」と自分は信仰があると思っているが、みことばを聞く時に心の戸を閉ざしているので、自分を発見することもできず、悟れないで相変わらず相手をさばいて当て推量をする言葉を口にするようになる。

しかし、自分の中に霊の愛があれば、相手がいくら偉そうにして高ぶって気に障る行動をしても、憎しみや悪い感情が起きるのではなく、愛をもっておおっていく。梁がないから相手の良い点だけが見えて、その信仰に合わせて理解し、もどかしい心で祈るようになる。

したがって、相手のちりが見えるということは自分の目の中に梁があるからだと悟って、まず自分の目の中から梁を取りのけなければならない。そうする時、心の目がはっきり見えて、霊肉ともにすべてをさらに明らかに悟ることができる(エペソ1:18-19)。


「梁を取りのける」とは心にある大きい罪の性質を引き抜いてしまうという意味

心にある大きい罪の性質を引き抜いてしまえば、小さい罪の性質も自然になくなる。木の大きい根が抜けるとき、ひげ根も抜けてくるように、最も捨てにくい大きい罪の性質をまず集中的に引き抜けば、小さい罪の性質が自然に抜けるのだ。このように「目の中から梁を取りのける」とは、心にある大きい罪の性質を引き抜いてしまうという意味だ。

たとえば、憎しみという罪の性質を引き抜いて愛で満たすならば、そねみやねたみのような罪の性質はなくなる。したがって「いつ心の罪の性質を全部捨られるのだろうか」と心配する必要はない。もし家から梁を取りのければ、家が崩れるしかない。このように、最も捨てるのが難しい罪の性質を集中的に祈って断食して捨てていけば、すみやかに変えられて御霊に属する心になれる。

自分の目の中から梁を取りのければ、たとえ相手のちりが見えたとしても、さばいて罪に定めたり、他の人に伝えない。真実の愛でアドバイスをするから、相手も感動して、自分の過ちを悟って変えられることができる。

以前罪をたくさん犯して罪の性質が深く根を下ろしているならば、それだけもっと努力して熱心に捨てていかなければならない。移り変わることなく行っていけば、結局その罪の性質が抜けるという聖霊の力を体験できる。

たとえてみると、黒い水で一杯の器にきれいな水を注ぎ続ければ、その水は澄む。このように心の罪の性質も、真理のみことばと愛の行いで満たし続けていけば、それが抜けて御霊に属する心に変えられる。しかし、黒い水にきれいな水を注ぎながらも、また黒い水を注いで、またきれいな水を注ぐを繰り返すならば、黒い水が澄んだ水に変わることはできない。同じように、罪の性質を引き抜くために努力しながらも、相変わらず真理でないものを受け入れているならば、その罪の性質を捨てることができないのだ。

<第一コリント2:15>に「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」とある。自分の目の中から梁を取りのけた人はどんな悪も行うはずもなく、自分の知識や思いでわきまえるのではなく、真理である神のことばによって見分けるのだ。すべてのことを善と愛の心で見分けて、正しくわきまえられるのだ。それで、すべてのことをわきまえることができて、だれによってもわきまえられない。

時々、悪い人々が神の人を憎んでさばくことがあるが、それは彼らの悪の中から出て来るのであり、神と何のかかわりもない(ヨハネ3:20)。創造主なる神おひとりだけがさばきを行う方であり、被造物である人は律法を守る者だ。したがって、律法の悪口を言い、さばく悪い者たちは神の御前に罪の壁を積むだけである(ヤコブ4:11)。


 

 

 
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