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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

信仰成長の秘訣

万民ニュース   第 182 号
3784
2017. 12. 24


主を受け入れて聖霊を賜物として受ければ、霊的には生まれたばかりの赤ちゃんのようだ。このように生まれたばかりの子どもの信仰から信仰生活が始まる。それ以後、若い者、父の信仰(第一ヨハネ2:12〜14)と一つ一つその段階を経て成長するようになるが、ひとりひとりの行いによって個人差が生じる。三つの分野で信仰成長の秘訣を調べてみるが、神に喜ばれる全き信仰の量りにすみやかに至れるように。


焦らないで基本的なことから 行わなければなりません

信仰の成長において、神の愛のうちに全き信仰の量りに至れるという確信を持つことは非常に重要だ。もし焦る心で「私はなぜ信仰がこれしかならないか」と思うなら、かえって信仰が成長するのに邪魔になるだけだ。

私たちが霊的成長を遂げるには、まず御霊によって自分の姿を悟らなければならない。ところが、焦れば肉の思いが先んじるので、心の声に耳を傾けられないからじれったくなるばかりで、自分の姿があまり悟れない。

みことばを通して欠けている姿が発見されても、捨てる力が湧いてこないから、変えられなければという思いにかえって心が抑えつけられて苦しむだけだ。

霊の信仰は神が下さるものであり、聖めの恵みと力も神が下さる。だから、自分の信仰は「これくらいになるべきだ」という線を定めてはならない。焦るからといって信仰が成長するのではなく、着々とその段階を踏んで上がらなければならない(ローマ12:3)。

雑念にふけらず、居眠りせずに霊とまことによって礼拝をささげ、絶えず火のように祈り、賛美する時も御霊によって一節一節に心を込めてささげ、毎日聖書を読んで口ずさむなど、基本的なようだが非常に重要なこのようなことが積まれて大きい信仰になるからである。捨てられなかったことが捨てられるように、できなかったことができるように、神の恵みをいただいて強くされるように求め、今すぐできる一番小さいことから信仰によって行っていけばよい(ルカ11:11〜13)。

説教を聞く時にどれほど心に留めたのか、みことばを行うためにどのように努力したのかチェックしてみて、新しい心で一つ一つ完全に行おうと努力すれば、聖めの道へと導かれる神の愛と関与を具体的に感じることができる。


みことばと祈りが両方 なければなりません

みことばどおり変えられるように強くされるためには、父なる神の愛を悟らなければならない。その愛のうちにいてこそ自分を発見できて、真理を行っていけるよう強くされるからだ。

ところで、愛を悟るためには、みことばと祈りが両方なければならない。みことばを聞いてこそ全き信仰とは何か理解できるし、真理と真理でないものを見分けることができるし、自分の信仰をチェックして、変えられるべきことが悟れる。

私たちが祈らなければ、いくらみことばを聞いても悟れなかったり、自分に正しく適用したりできない。たとえ自分に当てはまるみことばだと悟っても、捨てる力が与えられないから、そのみことばがかえって重荷になるだけだ。しかし、祈れば、みことばが善だと悟れ、みことばを通して自分を悟らせて変えさせてくださる神の愛が感じられる。

最も良いものを与えようとなさる神の愛を悟れば、祈りが変わってくる。主にあってどう行うべきか知っているので、具体的に祈らないで、ただ「間違っていました。お赦しください」「悔い改めます」と祈ったり「これも捨てて、あれも捨てるようにしてください」と義務的に祈ったりしない。

「私を造られ、私に良いものを下さり、導かれる父なる神様、お父様を愛していますので、そのみこころのとおり完全に行えるようになりたいのです。まだ捨てられない罪と悪も早く捨てるようにしてくださり、ただお父様の慰めと喜びになるようにしてください。その愛のうちに恵みを加えてさらに強くしてくださり、お父様の近くにとどまれるようにしてください。」このように喜びと感動の祈りの中に父なる神の愛をさらに深く感じながら、全き信仰へと成長していくものである。


他の人と比べて気を 落とすことがあってはなりません

父なる神の愛が心に満ちているなら、自分を他の人と比べなくなる。神が自分を愛し自分が神を愛するので、すべての人とその愛を分かち合うことのできる心の豊かさが生じるのだ。ところが、この愛が感じられなければ、他の人と自分を比べるようになる。自分がもうちょっと先んじていると思えばほっとするが、相手のほうがまさっているようなら、焦って不安になり、悲しんで気を落とすのだ。

自分の信仰の量りの中で最善を尽くして走って行く人はすべてのことに良いほうに思う。愛する人がほめられて認められれば、自分がほめられたように幸せを感じるように、 神の愛で心を満たせば、周りの人にも愛をもって対することができる。また、神の愛のうちに熱心に走って行って、ついに全き信仰を持つことを信じる。

他の人が先んじているとしても感謝し、自分が先んじたとすれば、相手のために祈って力になれるので、これもまたも感謝なことなのだ。だから、心の中に神の愛が満ちていて、すべてのことに真理を喜べるように。変化の行いにおいて重要なのは、どれほど神を愛そうと努力して、どれほど恵みを慕うかという点だ。

聖霊によって強くされれば、いくら欠けたところの多い心もやせた心の地も変えられることができる。「はたして私は心をどこに置いているのか」「本当に神様を愛して新しいエルサレムにだけ望みを置いているのか」と自分の信仰を直視することで「私を召して導かれる父なる神様が必ず私を全く聖なるものとしてくださり(第一テサロニケ5:24)、きっと新しいエルサレムに導き入れられる」という望みをもって、火のような祈りの香をささげながらみことばどおり行って、全き実として出て来るように。



 

 

 
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