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まことの信頼と愛を持つには?
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2018. 05. 27 |
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肉の思いを捨てて、聖霊に助けられて良きみこころを悟り、愛が大きくなるほど、神とまことの信頼で一つになれる。
神に対して反抗する「肉の思い」を捨てなければなりません
<ローマ8:7>に「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とある。果たして神に対して反抗する肉の思いとは何だろうか。
「肉の思い」とは、人の心の中にある真理でないものがたましいの働きを通して出て来るものであり、欲を追って心を揺るがすので、神に喜ばれる霊の信仰が持てないように妨げる。肉の思いを巡らせはじめると、すべての事について自分の基準に合わせてさばき、自分の利益を追って考えるので、正しいことを間違っていると非難したり、良いわざを悪いと誤解したりしていても、自分の思いが間違っていることを知らないまま生きていく。
簡単な例を挙げよう。いつも好感を持っていた相手がある日突然挨拶を返してくれないし、表情が良くないと、「私に気を悪くしていることがあるのか。いい人だと思っていたのにひどく無礼な人だ」と一瞬にして思いが変わるのだ。相手の状況と立場は全く考慮しないで、自分の悪賢さと移り変わる心によって相手をさばくのだ。
第二サムエル6章を読めば、ダビデ王が神の箱をエルサレムに運んで来て、あまりにもうれしくて踊りながら神をほめたたえると、これを見た妻ミカルが品のない卑しい行動をしたとさげすむ。神の御目に善と見られるダビデの行いをミカルは自分の悪と高ぶりによってさばいたのだ。
ルカ13章では、イエス様が安息日にある会堂で、十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女に手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。ところが、会堂管理者は安息日にいやしたと憤って、群衆に安息日でなく他の日に直してもらいなさいと言う。神の力が現れ、みじめな生き方をしていた人が神の愛を体験したということを考えられないのだ。その心に愛と善がないから、自分の義と枠にはめてさばきながら、神のみこころだと固執するのだ。
このように、心の中にある憎しみ、ねたみ、そねみ、欲などの真理でないものと、自分の義と枠のゆえに肉の思いが出て来て、良いことを悪いとさばくのだ。だから、何よりまず神に対して反抗する肉の思いを徹底的に砕かなければならない。良いことを良いと悟れないようにする自分の悪を発見してすみやかに引き抜き、すべての事について御霊による思いをしてこそ「その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」(第一コリント2:13)というみことばのように、霊である神の心を理解して、三位一体の神に信頼することができる。
聖霊の声を聞いて導かれ良きみこころを悟らなければなりません
マタイの福音書15章で異邦の女性が自分の娘から悪霊を追い出してくださるよう願うと、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われる。それでもこの女性は全く傷つかないで、かえってさらに自分を低くして「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言って最後まですがる。
このようにへりくだった告白を聞かれたイエス様は彼女の信仰をほめて、直ちに答えてくださった。もしこの女性が自尊心を前面に出したならば、イエス様を恨めしく思うこともあり、気を落として答えをあきらめることもあるだろう。しかし、彼女には答えていただけるという信仰があったので、変わらず善の告白をしてすがった。
イエス様はこの女性の信仰をすでにご存じだったので、最後まで信仰を見せるようにして、答えを受けられる公義の量りを満たすようになさったのだ。また、神を信じると言いながらも、答えていただけない時に簡単に気を落としたり、神につぶやいて移り変わったりする人々に、まことの信仰とは何なのかを見せるためにこの女性のへりくだった告白を引き出されたのだ。
このように善の心でわきまえる人はイエス様の善と愛を信じるので、そうなさった理由について探り窮めるようになる。したがって、主を受け入れて聖霊を受けた後、心の悪を捨てて肉の思いを砕くほど、聖霊に働きかけられることができる。その中で神の良きみこころを悟れることができるのだ。自分の中に悪い思いと真理でないものがあって、世を愛する心があれば、助け主聖霊は働くことがおできにならない。しかし、聖霊に助けられているうちに善の心で探り窮めれば、深い意味も悟れるし、そのみこころを悟っていくほど信頼もますます深くなるのだ。
愛が大きくなるだけに信頼も大きくなります
一番弟子ペテロはイエス様が働いておられた当時、行動をともにしていて、イエス様を信頼して愛していたが、十字架の出来事を体験した後にはその愛の次元がさらに深くなった。自分がとても愛していた師、しかも良いお方で尊い神の御子が自分の目の前で酷い苦しみにあわれた。ところが、自分はその方を守って差し上げるどころか、知らないと言い、さらに呪いの言葉まで口にしてしまったのだ。
それでもイエス様はどんな叱責もなさらず、黙って自分を見つめられ、むごい十字架刑をお受けになった。自分のために死なれたイエス様の苦しみを目撃した後、ペテロの愛は以前と違ったし、その愛が深くなったほど信頼も全く違ってきた。
前は女中の前でも恐れたが、今は殺気立った人々に囲まれても大胆に福音を叫ぶだけでなく、十字架を逆さまに負って殉教する時も、その信頼にわずかな揺るぎもなかったのだ。ただ熱い愛と堅い信頼をもって栄えある殉教ができた。
このようにまことの信頼と愛のうちに完全に一つになって、この地上でだけでなく最も美しい天国、新しいエルサレムで三位一体の神に慰めと愛をささげられるように。
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