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イエスとイエス・キリストの違い
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「イエス様の御名によって」祈る時と「イエス・キリストの御名によって」祈る時の違いは非常に大きい。 ...
       
 
  
 

私の心のチェックリスト - 御霊に属する心にどれだけ変えられただろうか?

万民ニュース   第 129 号
5456
2013. 07. 28


神様が望まれる御霊に属する心とそれと反対の肉の心を四つに分けてみた。


一歩引く心 vs 先に立とうとする心

ここで「一歩引く心」とは、難しいことを引き受けまいと身をすくめたり、責任を回避して優柔不断に退く真理に逆らう心のことを言うのではない。へりくだって叫ばないし、自分の立場で正しいことだけを主張しないで、自分の功を認められようとしない心のことを言う。これは役に立たないしもべの心で、何としてでも相手の心を顧みて、真理にあって平和をつくろうとする。仕えようとするだけなので、いつも心が安らかで幸せだ。
反対に「先に立とうとする心」があれば、自分の名前と功が現れることを願い、他の人より自分のほうが認められたいと思う。自分が見て労苦したこと、目立たせるほどのことがあると思うので、ほめられて認められることを願うのだ。本当にへりくだった心を持てば、いくら労苦したとしても、当然すべきことをしただけだと思うので、先に立つことをひどく申し訳なく感じる。
これとは違って、ある事に自信がなくて力がないので、前に出ないで後ろに引いている場合がある。この時、先に立とうとしたり叫ぶ心がないと自分では思っているが、自分が得意なことや目立たせるようなことが起きれば、肉の心が現れる。自分の思いどおりに事が運ばないとき、深い所にあった根本の属性が、つぶやき、やりきれなさ、人とぶつかるなどの形で現れるのだ。したがって、自分がいくら正しいと思うことでも、時と場所などすべての情況をよく考慮して、主張する時と主張しない時を見分けなければならない。


理解する心 vs 自分のほうに合わせて考える心

「理解する心」とは、相手を良いほうに見てあげる心のことだ。相手の短所を見て敬遠しないし、その心を推し量って、なぜそうするしかないのか、その人の立場で理解する。今はたとえ欠けているところがあっても、神様が恵みを下されば必ず変えられると信じて、何としてでも頑張ってすべてが益とされるように、慰めて助けてあげたいと願う心である。このように良い心で理解するとき、相手も心の戸を開いて、心を分かち合うことができる。まさに理解しないことから誤解が生じて、平和が壊れるのだ。
自分の立場と観点、そして自分の利益を求める心で考えれば、相手が理解できない。しかし、人によって信仰が違い、成長した環境と学んだこと、能力と性分が違うということと、自分が完全でないように相手も完全でないということを認めなければならない。御霊に属する心を持った人は相手の立場で理解するので、そむきの罪をおおってあげて、良いほうに思う。自分が持っている真理の定規で相手を見る前に、相手の痛みがまず心に感じられるので、一緒に悲しむ。
相手が自分をつらくさせると思うのは、相手の立場で考えられないからだ。自分の立場で考えるからつらいのであって、相手の立場で理解すればつらくないし、平安を失わない。訓練の中でもいつも良いほうに理解して、御霊に属する心に変えられようと努力するとき、神様の心と愛が悟れて、まことの祝福の主人公になることができるのだ。


認める心 vs 弁解する心

御霊に属する心を持った人はアドバイスや指摘、お叱りを受けるとき、自分の欠けていることと過ちを認める。目上の人はもちろん、同僚がアドバイスして、小さい者が指摘するとしても、心が傷つかないでありがたいと思う。自分のために言ってくれるのだと良いほうに思うので、相手をありがたく思う心になるのだ。仮に相手の指摘が正しくなかったとしても、謙虚に受け入れて自分を顧みる。相手の目には自分の行いが正しくないこともあり、徳を高めないこともありうることを、いつも覚えておくのだ。
反対に、肉の心を持った人はアドバイスや指摘、お叱りを受けるとき、弁解して言い訳をする。それどころか、指摘する相手がむしろ自分のことを間違って知っていると思い、むなしくなってわだかまりを持ったりもする。
御霊に属する心を持った人は、他の人の良い点と得意な点を認める。しかし、肉の心を持った人は、自分を基準にして相手を見るので、信仰が弱い人が最善を尽くしても、足りないと思えば認めない。また、ねたみ、そねみがあって、自分より劣っている人がほめられるとき、短所を思い浮かべてその人の長所を認めない。反対に、御霊に属する心を持った人は、何としてでも相手がよくやれることを期待して、長所一つでも認めてあげて、その長所を生かして短所を改善していくことを願うのだ。


変わらない心 vs 変わる心

御霊に属する心を持った人は、一度受けた恵みについての感謝が変わらない。いつも忘れないでいて、自分が受けた恵み以上に報いようとする。「このくらい報いればいい」と思わないし、自分が喜んで恵みに満たされている時でも、つらくて大変なことがある時でも、変わらずその恵みに感謝して、主を愛する行いをやめない。
反対に、肉の心を持った人は、恵みに報いていても、自分の利益に合わなければその心と行いが変わる。心に決めたことを初めは喜んで感謝して行っていても、後にはいやいやつらそうにする。また、全く決めたことを行えなかったり、誓願したことを破ったので訓練を受けて、試練や患難に落ちたりもする。
御霊に属する心を持った人は、聖められた御霊の人に見習おうとする行いも、いつも変わらない。その人を手本にして、自分も御霊の人に変えられようとするからだ。究極的な目的が御霊の人の心に変えられることなので、行い自体も善で美しい姿として出てくる。
ひょっとして自分は御霊の歩みを慕うといっても、一歩引くより先に立とうとしたり、その状況を楽しもうとする心ではないか、相手の心を理解するよりは自分に合わせて考えるので相手をつらくしてはいないか、指摘されればつらくなって、心では認められなくて理由と言い訳をしていないか、恵みに報いようとする心が自分の利益を求める心のゆえに変わっていないか、顧みてみよう。


 

 

 
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