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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

愛はすべてを耐え忍びます

万民ニュース   第 132 号
4370
2013. 10. 27


「愛は寛容であり、……
すべてをがまんし、
すべてを信じ、
すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。」
(第一コリント13:4-7)



堂会長イ・ジェロク牧師



第一コリント13章に記されている霊の愛の属性の中には「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」という項目があります。
ここで「すべてをがまんする」とは、愛と反対になるすべてをがまんすることであり、「すべてを信じる」とは、どんな人であってもすべてを信頼して信じてあげることです。「すべてを期待する」とは、信じていることが実際に現れる時まで、望んで待つことです。
このように、私たちがすべてを信仰によって希望をもって期待するので、すべてをがまんすることができるし、すべてをがまんするので、またすべてを耐え忍べるのです。それでは、霊の愛の属性の中で「すべてを耐え忍びます」という項目に含まれた霊的な意味は何であり、どうしたら霊の愛を完全に持てるでしょうか?


1. すべてを耐え忍ぶとは?

霊の愛と反対になるすべてをがまんするなら、それに伴う余波が来るものです。大きい波が行ってしまえばその後にさざ波が立つように、すべてをがまんする時にも、がまんすることで終わらないで試練がやって来たり、心に苦しみが伴ったりもします。
マタイの福音書5章39節に「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とあります。それで、相手が頬を打っても悪をもって対抗しないで、黙ってがまんします。しかし、それに伴う心の痛みはついて来ることもあります。
この時、ひとりひとり心が痛い理由も違います。打たれて悔しいとつらくなる人がいるかと思えば、相手を怒らせたことが心苦しくて、心を痛める人もいます。怒りを抑えられなくてそのまま表に出してしまう兄弟を見ると、もどかしくて心が痛むこともあるでしょう。
それだけでなく、がまんすることの余波は外の環境から来ることもあります。たとえば、相手が右の頬を打ったとき、がまんして左の頬を向けたのに、容赦なく左の頬まで打つとしましょう。みことばのとおりに従ってがまんしたのに、状況がもっと悪くなったように見えるのです。神様のみこころのとおり愛と反対になることをがまんしたので、直ちに試練が退くはずのようなのに、こんな訓練が伴う理由は何でしょうか? これは愛なる神様が私たちを完全にして、祝福してくださるためです。
私たちもがまんして耐え忍ぶ時間を通して、中身がぎっしり詰まった実になるのです。このように訓練を通して神様のまことの子どもとして出てくることが、まさに人間耕作の摂理です。霊の愛を完全に心に耕す前は、悪を行う人を見るとき、うわべではがまんしますが、心には相変わらず「会いたくない。理解できない」という感情が起きます。これを知っている敵である悪魔・サタンが訴えれば、訓練が伴うようになります。
心に悪がないと認められるまでは、大きくても小さくても訓練というテストがあるものです。もちろん、悪が全くないとしても、訓練がやって来ることがあります。これは祝福を下さるためです。心に悪がない次元で終わるのではなく、より大きい愛、全き善へと導かれるためなのです。
個人的な祝福を下さる時だけでなく、神の国を建て上げる時にも、このような原理が適用されます。神様が大いなるみわざを施されるためには、それだけ公義が満たされなければなりません。大きい信仰と愛の行いをもって答えられるような器であることを証明してこそ、敵である悪魔・サタンが訴えられないのです。このような理由で、神様は時々試練の風雨に耐えるようにされます。この時、ただ善と愛をもって忍耐すれば、結局、勝利して栄光を帰すようになるのです。


2. すべてをがまんして信じ、期待して耐え忍ぶためには

私たちが神様を愛するがゆえに、真理にあってすべてをがまんして信じて期待すれば、どんな訓練でも十分に耐え忍ぶことができます。それでは、具体的にどのようにすべてを信じて、期待して、耐え忍ばなければならないでしょうか?

1) 訓練の中にいても、神様の愛を堅く信じなければなりません

神様は、私たちがこの地上の人生が終わる日、称賛と光栄と栄誉を得られる資格を備えるように、訓練を受けることを許されます(第一ペテロ1:7)。世と妥協しないでみことばどおり生きていると、何のわけもなく苦しみを受ける時があります。そんなとき「私は神様に特別に愛されているんだ」と信じなければなりません。するとすべてが感謝の条件になります。よりすばらしい天国に導くためにお与えになった訓練なのですから、どれほど感謝でしょうか。
ところが、訓練期間が長くなれば「神様は本当に私を愛しておられるのだろうか」という気がすることもあります。そんな時ほど神様の愛を信じて、忍耐しなければなりません。神様が私を愛しておられるので、よりすばらしい天国に導かれるのだという事実を信じなければならないのです。このように神様の愛を信じて、最後まで忍耐すれば、結局、完全な者に変えられる祝福をいただくのです(ヤコブ1:4)。

2) 練られた品性が希望を生み出す近道であることを信じなければなりません

ローマ人への手紙5章3-4節に「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とあるとおり、忍耐を通して練られた品性は希望を生み出す近道です。時には、自分を見るとき、「いつ変えられるのだろうか」と思うこともあるでしょうが、磨かれたあげく輝く宝石になるように、忍耐して練りに練られるなら、結局、神様に似せられた完全な子どもになるのです。
したがって、忍耐が練られた品性を生み出すまで、不断の努力をしなければなりません。もちろんやさしい道に行きたいのが人の心ですが、練られる道を避けて行けば、それだけ遅くなるのです。周りにことごとにけちをつける人がいるとき、いやな顔はしないけれど、心が穏やかでなくなります。この時も避けることが上策でなく、忍耐して相手を本当に理解して赦す、積極的な心が必要です。その時、神様が恵みを与えて、変えられるように導いてくださいます。このように一つ一つの状況に忍耐して練られた品性を生み出すと、結局、希望を生み出す飛び石になり、近道になるのです。

3) すべてを耐え忍ぶためには、ただ善だけを行わなければなりません

ふつう試練や患難は人や環境によってやって来るように見えますが、霊的にはそうではありません。すべての信仰の試練は敵である悪魔・サタンがもたらすものです。つまり、試練や患難は善と悪との戦いなのです。ですから、霊的な戦いで勝利するには、結局、善が勝利するという霊の世界の法則に従って戦わなければなりません。善を行えば、当座は負けるようだし、損をするように見える時もあります。しかし、「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)とあるとおり、善を行えば、神様は正しいお方なので、善が勝つしかありません。
ひょっとして傍若無人でとうてい理解できない人がいるでしょうか? そんな人にはさらに心から善を行ってみますように。心にまことの愛を耕せば、耐え難い人がいなくなります。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)とあるとおり、相手を自分自身のように愛するので、すべてを理解していだくようになります。

愛する聖徒の皆さん、真珠貝は砂粒、海草などの異物が入ってくれば、かえってそれで真珠を作り出します。このように愛するがゆえにがまんする時にやって来る痛みを、信仰と希望をもってよく耐え忍んで「霊の愛」という真珠を作るようにお願いします。それで、この美しい真珠を作るまで、私たちを期待の目で見てくださった父なる神様に「すべてをがまんして信じ、期待して耐え忍んでくださって感謝いたします」という感動の告白がささげられますように、主の御名によって祈ります。


 

 

 
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