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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

神の愛

万民ニュース   第 134 号
4304
2013. 12. 22


「私たちは、
私たちに対する神の愛を知り、
また信じています。神は愛です。
愛のうちにいる者は神のうちにおり、
神もその人のうちにおられます。」
(第一ヨハネ4:16)



堂会長イ・ジェロク牧師



天地万物に美しいものを見る時や、ある人から良い心が見える時、私たちは幸せを感じます。まして、すべての美と善と愛の初めであられる神様の心を私たちの中に作ったなら、その幸せはどれほど大きいでしょうか。
神様の愛は苦しみを溶かす安らかさであり、闇を追い払う明るさと希望であり、気を落とした人を立ち上がらせる力の源です。また、悲しみを退ける喜びであり、すべての涙をぬぐってくれる慰め、疲れてつらい時に心身を軽くしてくれる生命力の源です。
このように美しい愛が、まさに私たちに向けられた最も次元の高い神様の愛です。


1. 人間を耕作してまことの子どもになるよう導かれる愛

神様は最初の人アダムを造られた後、エデンの園に導き入れられました。そこは神秘的なほど美しい自然の中に、いろいろな花と木が生えていて、かわいい動物が遊び回り、どこへ行こうが豊かな実がなっていたのです。
そしてアダムのために、神様はエバという連れ合いも与えてくださいました。アダムが自分で孤独だと感じたのでなく、永い歳月、ひとりでおられた神様があらかじめ推し量って施された愛でした。
最初の人アダムはエバとともに最上の環境で数えきれない歳月、神様とともに歩み、万物の霊長として大きい権勢を持って生きていました。しかし、まことの子どもになるには、まだ欠けているものがありました。神様のほうでは思う存分愛してくださったのですが、いざその心はというと感じられなかったのです。
神様が下さったすべてのものを持って味わっていましたが、自分が労苦して得たものではないので、ありがたみがわかりませんでした。また、不幸や死を感じたことがなかったので、その意味を知らず、憎しみを体験したことがないので、愛のまことの価値も知りませんでした。つまり、相対性を体験したことがなかったのです。
アダムとエバが蛇に惑わされて善悪の知識の木の実を取って食べたのも、このゆえです。神様は「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)と仰せられましたが、彼らは死が何か知りませんでした。それなら、神様は彼らが善悪の知識の木の実を食べるとは思われなかったのでしょうか? そうではありません。神様はすべて知っておられましたが、アダムとエバには自分で選択できる自由意志があって、ここには人間耕作という摂理が隠されていました。
人間耕作を受けて涙、悲しみ、苦しみ、死などを体験することで、やがて天国に行って、自分が味わっているものがどれほど尊いのか悟るだけでなく、まことの幸せを味わうようにするためでした。それで、エデンの園とは比べられないほど美しい天国で、とこしえに愛を分かち合おうとされたのです。
結局、アダムとエバは自由意志で神様のおことばに聞き従わなかったので、エデンの園から追放されてしまいました。天下万物を支配していたアダムが権力を失うと、その下にあった動植物まで呪われました。豊かで美しかったこの地上にもいばらとあざみが生えて、顔に汗を流さないと食を得られないようになったのです。
神様はたとえ聞き従わなかったアダムとエバであっても、エデンの園と全く環境の違うこの地上で生きていかなければならない彼らのからだを守るために皮の衣を作り、彼らに着せてくださって、この地上に追い出されました(創世記3:21)。子どもの将来のためにしばらくそばから離す親の心だったでしょう。こんな神様の心とは違って、人間耕作が始まって以来、人類は急速に罪に染まり、神様から遠ざかっていきました(ローマ1:21-23)。


2. 世界の始まる前からイエス・キリストを備えておかれた神様

<第一テモテ2:4>に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあるように、神様の愛は特定の時代、特定の人にだけ向けられているのではありません。神様はすべての人が救われることを望んでおられます。救いの門を開いておいて、ひとりの魂がご自分のもとに帰ってくるたびに、まことに喜んで暖かく迎えてくださるのです。
このように最後まで私たちを見捨てられない神様の愛によって、すべての人が救われる道が開かれました。それがひとり子イエス・キリストです。「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)というみことばのように、イエス様の尊い血といのちで、罪人が払うべき罪の代価を代わりに払われたのです。
神様は人類のすべての罪を贖うために、イエス様の尊い血を注ぎ出すようにされました。イエス様は十字架につけられて死なれましたが、何の罪もなかったので死の力を打ち破って三日目によみがえられ、これで救いの道が開かれました。
たいていの親は子どもへの愛を表現するとき「目に入れても痛くない」と言います。自分の命より大切なのが子どもです。したがって、神様がひとり子イエス様を与えてくださったのは、愛の極致を見せてくださったということです。その上、主の尊い血によって取り戻した人たちのために美しい天国を備えておかれたのですから、どれほど驚くべき愛でしょうか。


3. 聖霊を賜物として下さって天国まで導かれる愛

神様の愛はこれで終わりません。イエス・キリストを受け入れて罪を赦された人には誰でも、聖霊を賜物として下さいます。聖霊は神様の心です。神様は、十字架につけられて死なれたイエス様がよみがえって天に上られた後、私たちの心の中に助け主聖霊を遣わしてくださいました。
真理の御霊である聖霊は、私たちが罪を犯せば、言いようもない深いうめきによって、立ち返るように導かれます。信仰が少ない人に信仰を加え、望みのない人には天国の望みを加えてくださいます。お母さんが子どもを細やかに世話するように、転ぶのではないか、けがをするのではないかと、時に応じて御声を聞かせてくださいます。私たちを愛する神様のお心を知らせて、天国まで導いてくださいます。
このような愛を深く悟ったなら、神様を愛さずにはいられません。私たちが神様を心から愛すれば、神様は返しきれないほど大きく驚くべき愛で返してくださいます。健康である祝福だけでなく、すべての点でも幸いを得て栄える祝福を下さいます。これは霊の世界の法則でもありますが、同時に、祝福されて答えられることを通して、私たちが神様の愛を感じることを願われるからです。
皆さんが初めて神様を見つけていろいろな問題が解決されたとき、自分のような罪人も赦してくださった愛に感謝して「神様の大きい恵みに何をもって報いようか」と思ったでしょう。心配、憂いがなく、病気や苦しみ、死のない永遠の天国を下さった神様の愛に胸が熱くなりました。私たちがまず神様を愛したのではなく、神様のほうがまず訪ねてこられ、御手を差し伸べてくださいました(第一ヨハネ4:19)。
私たちに愛されるに値する資格があるから愛してくださったのではありません。罪人として死ぬしかなかった私たちのために、ひとり子まで渡してくださった愛です。神様はすべての人を愛しておられますが、女が自分の乳飲み子を一時も忘れないように、それ以上に私たちを顧みて、千年を一日のように待ちに待っておられるのです(イザヤ49:15)。

愛する聖徒の皆さん、
神様の愛は永い歳月が流れても変わらない、真実の愛です。やがて美しい天国で受ける栄光のうちにともに過ごす日を指折り数えて待っておられる神様の愛を心の奥深く感じて、いつも感謝があふれる幸いな生き方になりますよう、主の御名によって祈ります。


 

 

 
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