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光として輝く_ 「神は光であって」シリーズ9
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光である神は、ご自身の子どもたちが明るい太陽のように真理の光で暗い世を明るく照らすことを望んでおられる。 ...
       
 
  
 

純真の知恵

万民ニュース   第 136 号
4186
2014. 02. 23


「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:17)



堂会長イ・ジェロク牧師




世では策略を企む人が成功するように見えて、安らかに生きているように見える時があります。けれど、その人生をのぞいて見ると、家庭や事業の場、職場の問題、病気などで手に余る危機を迎えることもあります。
これとは違って、心の汚れを洗い清められ、善の知恵をいただいた人は、神の愛と祝福に包まれて、すべてが栄える人生を送るようになります。はたして神が下さる知恵とはどんなものでしょうか?


1. 神の知恵をいただく近道

今日、学校教育が知識注入に偏っているという批判があります。その代案として、自分で問題が解決できる知恵を育てる教育を提示します。しかし、それは神が下さる知恵とは比べられないのです。
それなら、知識と知恵にはどんな違いがあるでしょうか? 生まれたばかりの赤ちゃんは白紙のように、記憶装置に何の知識も入っていません。人は成長しながら見て聞いて学んだものを記憶装置に貯蔵しますが、これが知識です。このように積んだ知識を適切によく配合して活用するものがまさに知恵です。
「知恵」とは「物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。」と辞書には定義されています。特に神が下さる善の知恵は、成功の人生を送って、多くの魂を救って神の国を実現していく、あらゆる分野に必要です。それでは、どうすればその知恵をいただくことができるでしょうか?
<箴言9:10>に「【主】を恐れることは知恵の初め、」とあります。ですから、神が下さる知恵をいただくには、何よりまず【主】を恐れることによって悪を離れなければなりません(箴言16:6)。
<ヤコブ3:17>に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とあります。ここで「上からの知恵」とは、神の知恵のことを言います。神を恐れて、邪悪な心を清くすることが、神の知恵をいただく近道なのです。


2. 純真から出てくる善の知恵

心に善が欠けている人は、ある人が自分を苦境に陥れようとしているのを知ると、その人を指摘して恥をかかせます。たとえそうでなくても、その人の悪い意図に気づくと、皮肉な言葉で返したりします。
ですが、善の知恵がある人は相手を無視したり感情を傷つけたりせず、自分で悟るようにします。このように神の知恵は善の方法として現れます。心に善があるほど神と深く交わって、善から出てきた知恵をいただきます。心が汚れているなら、善の知恵を教えても、従うのがやさしくありません。ですから、邪悪な心を清くすることが神の知恵をいただいて、その益を得る道なのです。
賢い人はこれを悟って、神のお心を動かす善の祈りをします。心が純真であるほどそのような祈りができます。一つの例として、ある区域長の祈りの内容を調べてみましょう。それなりに区域のために努力しているのに、リバイバルが遅れているようで、区域員が文句を言っても、かえって善の祈りをささげます。
「父なる神様、救われたことだけでも感謝なのに、私のような人に尊い区域長の使命を下さってありがとうございます。区域員を自分自身のように愛して仕えたいです。主の愛と涙があるので、それに支えられて実を結ぶことができます。時には区域員が私を愛して言ってくれる勧めの言葉も、感謝をもって受けて、さらに一つになって実を見せるようにしてください。」
このように心が純真であるなら、祈る時も神のお心を痛めるような表現はしません。善の祈りは、自分がしたいからといってできるのではありません。心が汚いと、知らないうちににじみ出てきます。したがって、どんな心で祈るかによって、答えが早かったり遅かったりすることもあります。神はこのような祈りを喜ばれ、すみやかに答えてくださいます。
もし自分がしてもないことや言ってもいない言葉によって周りの人から誤解されることがあるなら、どうしたらよいでしょうか? 自分は良い意図でしたのに、かえって困ることになってしまったり、非難されたりするなら、正しい正しくないをはっきりさせるよりは神にゆだねるほうがよいのです。自分の立場を弁解すればするほど、誤解だけが大きくなるからです。仮に言い争って悔しさは晴らしても、その過程で相手の過ちが明らかにされるので、結局、互いにわだかまりが積もるだけです。
<第二テモテ2:23>に「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。」とあります。思弁を避けないと、争いが起こって平和が壊れ、互いに背を向ける事が起こります。それで、賢くて心の清らかな人は思弁を避けて、静かに相手を抱きます。結局、真実が明らかにされて相手の心が溶け、深い信頼関係が作られるのです。
ひょっとして皆さんに予想もしなかった困難がやって来るなら、つらそうにしているより「神様が何か悟らせようとされることがある」と思いを変えてみますように。そして、聖霊に助けられて祈れば、それがかえって祝福の機会になることもあります。
<箴言3:6>に「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。悔しいからと言い訳しようとするより、静かに神のみこころを悟ろうとすると、自分が発見できます。どんな面が欠けていたのか、なぜ守られなかったのかを悟って、変化の機会にすることができます。ひょっとして悔しい目にあっても、かまいません。神がすべてをご覧になっておられ、時になれば報いてくださるからです。これが純真の知恵です。
いくら知恵のみことばを学んでも、心が汚れているなら、自分のものにすることはできません。自尊心が傷ついて悔しいので、口から恨みとつぶやきを吐き出すなら、テストにパスできなかったのです。ですから、純真であってこそ知恵の実を結べるのです。


3. 善のない知恵はむなしい知恵

ダビデの三番目の子アブシャロムは容貌が優れていて、知恵も飛び抜けていました。しかし、邪悪な心があって自分の知恵を悪いところに使ったので、結局、悲惨な最期を迎えました。
アブシャロムは、腹違いの兄アムノンが自分の妹を犯すと、機会を狙って自分に仕える若い者たちを遣わして彼を殺します。そして、ダビデに恨みを抱いて反逆を図ります。親衛部隊を養成して民を抱き込み、ダビデは民を愛していないが自分は民を愛しているかのように装い、民心をつかみます。
また、ダビデの議官アヒトフェルまで抱き込みます。ところが、順調にいっているようだったアブシャロムの反逆は水泡に帰します。神が彼の知恵を鈍らせたからです。アヒトフェルが一気にダビデを制圧する作戦を出したのに、それを選ばないで、ダビデに有利な作戦を提案したフシャイの意見を聞き入れました。賢いアブシャロムでしたが、神が彼の判断力を鈍らせると、滅びの道を選んでしまったのです。
このように純真から出ていない知恵はむなしく、良い心でなければいくら賢い話を聞いてもわからないので、何の役にも立ちません。反対に、純真な心になり、善の知恵を得れば、すべてにおいて当然言うべきことと行うべきこととがわきまえられるのです。また、言葉と行いが神にあって守られて、答えと祝福の実も豊かに結ぶことができます。
愛する聖徒の皆さん、
もし自分に被害を与える人にも感動と喜びを与えられるなら、行くところはどこでも神の祝福が伴います。ですから、神が認められる良い心から出てくる純真の知恵をもって、さらに幸せな家庭と職場、仕事の場を作り出していきますように、主の御名によって祝福して祈ります。


 

 

 
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